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ハロウィンに聴く、仮装する絶対音楽、幻想交響曲。 [2011]

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ハロウィンです。Trick or Treat!Trick or Treat?ウーン、トリートしてもらえそうにないので、トリックな話しをします。えーっ、ワタクシ、無類の実話怪談好きでして、そういう本に目が無かった先日まで... とある本(もちろん、怖い系の、それもルポ!)を図書館から借り(人気の本、かなり待ちましたよ... )、早速、読み始める。ところが、その日の夜、突然、くしゃみが止まらなくなり、それを合図に、歯茎は腫れるは、首肩は痛くなるは、眩暈はするは、幻覚は見る(って、つまり、これが、その、例のアレなのか?)は、どうしようもなくなり、翌日、朝一で図書館に本を返しに行ったところ、ケロリと治った。何だったんだ、一体... まさに実話怪談になってしまったのか?おおっ!と、テンション上がったのも束の間、これを機に、怪談アレルギーを発症。怖い系のテレビとか、ネットとか、本とかに触れると、また体調が悪くなるという... 猫好きの猫アレルギーって、悲しいですよね。今、そうした事態に、もの凄く共感しております。まさかの実話怪談好きの実話怪談アレルギー!なんてこった。
ならば、音楽でセルフ・トリート... 本年、ベルリオーズの没後250年ということで、ヴァルプルギスの夜に続き、ハロウィンも幻想交響曲!ヤニック・ネゼ・セガンと、彼が率いたロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団の演奏(BIS/BIS-SACD-1800)を聴く。

交響曲の始まり、シンフォニアは、オペラの序曲だった。当時のオペラの序曲は、後のオペラの序曲のような本編の予告編的性格のものではなく、上演開始のベル的なもの... だから、使い回すことができたし、独立して演奏することもできた。何より、アレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725)によって整えられて行く、イタリア式序曲、急―緩―急の三部構成によるシンフォニアには、間違いなく、後の"交響曲"への萌芽が見て取れて... そこから、一歩を踏み出したのが、ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ(ca.1700-75)。それまでのオーケストラの花形、合奏協奏曲、コンチェルト・グロッソに内包されていたバロックならではのコントラスト、小集団(ソリストたち=コンチェルティーノ)と大集団(オーケストラ=リピエーノ)の対峙を解消し、オーケストラをひとつにまとめ、古典主義の時代の"調和"を先取りすることで、18世紀における交響曲"らしさ"が獲得されて行く。その"らしさ"を大きく育てたのが、"交響曲の父"、ハイドン(1732-1809)。"らしさ"をシェイプし、絶対音楽として鍛え上げたのが、ベートーヴェン(1770-1827)... つまり、絶対音楽=交響曲は、古典主義を象徴するもの。だったが、皮肉にも、交響曲がそのスケールで大成するのは、古典主義の時代が終わった後、19世紀、アンチ古典主義たるロマン主義の時代... そして、ベートーヴェンの死から3年を経た1830年、恐るべきロマン主義交響曲が産声を上げる。絶対音楽たる交響曲に、私小説的な筋立てと、悪魔的な幻想を持ち込むという、とんでもない掟破りを犯したベルリオーズの幻想交響曲!それは、交響曲における、恐るべき革命だった...
いや、今、改めて幻想交響曲の革命性に目を向けると、実に興味深い。この作品が、交響曲の優等生、ロマン主義のゆりかご、ドイツではなく、フランスで誕生したという特異性!構築的なドイツの音楽に対して、より感覚的なフランスの音楽ならではの、ある種の自由が可能とした掟破り... そういう魔が差し得る隙があったればこそ、幻想交響曲はフランスに誕生したと言えるのかもしれない。裏を返せば、ドイツではあり得なかった音楽... そして、差し込む"魔"には、フランスの隠された"性"のようなものが滲み出ているのか... ロマン主義オペラの切っ掛けとも言えるケルビーニの救出オペラのドラマティックさ、その呼び水となったパリ時代のグルックの疾風怒濤を吹かせるトラジェディ・リリクのパワフルさ、その手本であったラモーの、リュリの、バロックが昇華されて至った悲劇の迫真!幻想交響曲の物語を孕んだ展開には、リュリ以来のトラジェディ・リリクの流れを汲む劇性が存在しているように思う。ロジックではない、溢れ出る感情... そのエモーショナルさが、絶対音楽=交響曲という形式を乗っ取って、異形のものを生み出すおもしろさ!幻想交響曲の革命性の基底に、古風なバロックを見出すと、フランス音楽のより大きなドラマがそこに浮かび上がるよう。つまりそれはバロックの復讐?バロックが、古典主義の象徴、交響曲に取り憑いてもたらすある種の狂気?ベルリオーズは、19世紀、ロマン主義が動き始める中、バロックという祟り神を拾ったのかもしれない。で、祟り神を以って、アカデミズムの権化、"交響曲"を調伏したか... なればこそ放たれる、他の交響曲には探し得ない圧倒的なる個性、時代を凌駕する鮮烈さ!
という幻想交響曲を、ネゼ・セガンは、さらに浄霊してしまう?存分におどろおどろしく、雰囲気満点で響かせることができる幻想交響曲... そう在ってしかるべきですらあるように思うのだけれど、ネゼ・セガンが注目するのは、ベルリオーズが綴った一音一音... 雰囲気に流されることなく、響きそのものを精緻に、それでいて"美しく"磨き上げ、物語よりも、交響曲として如何に音が織り上げられて行くかに焦点を当てる。そう、異形の交響曲に対して、またイレギュラーなアプローチを試みるネゼ・セガン... で、1楽章の冒頭から、この作品のイメージが覆りそうなほど美しい音楽を響かせる。また、そういう美しさをすくい上げようとすると、今度は古典主義の亡霊が姿を現して... 2楽章、「舞踏会」(track.2)で流れて来るワルツの、まるで踊ることを意識するかのようにきちんと刻まれる3拍子に触れれば、フランス革命で断頭台に送られたアンシャン・レジームの優美さが蘇るよう。続く、3楽章、「野の風景」(track.3)の牧歌性(18世紀のパストラル・シンフォニーを思い起こさせる... )は、古典美へと還り、アルカイック... そういう古典的な感覚を以って繰り広げられる、後半、4楽章、「断頭台への行進」(track.4)と、終楽章、「サバトの夜の夢」(track.5)では、ますます古典的に、淡々と奏でて、一切の派手さを排し、ベルリオーズがこの交響曲を如何に構築したかを詳らかにする。いや、改めて交響曲たる幻想交響曲をサルベージするネゼ・セガンの指揮、冴えている!聴き知った名作に、新たな像を結んで、新鮮。
そんなネゼ・セガンに応えるロッテルダム・フィルがまた聴き所... 室内楽的にすら感じられるほどクリアで、無駄の無い演奏を繰り広げ、美しい前半から、訥々と物語を捉える後半への展開が絶妙。いや、この訥々とした断頭台とサバトは、かえって猟奇的なのかも... そういう点で、ソリッドな現代のホラーを見る感覚?19世紀、ロマン主義としてではなく、古典的に響かせることで現代的に感じられるからおもしろい。いや、幻想交響曲が、何か現代風の仮装をしているような... そもそも、幻想交響曲は、絶対音楽が仮装したとも言えるわけだけれど、さらに仮装させて、これぞハロウィン、かも。それから、忘れてならないのが、幻想交響曲の後に取り上げられる、叙情的情景「クレオパトラの死」(track.6, 7)。幻想交響曲が初演される前年、1829年、ローマ賞の課題として作曲された作品を、アントナッチ(ソプラノ)が歌うのだけれど、トラジェディ・リリクのワン・シーンを思わせる濃密なドラマ(このあたりが嫌われ、ローマ賞受賞を逃している... )を、トラジェディ・リリクの古典的な品位を以って、情感豊かに歌い上げ、見事!惹き込まれる。

Berlioz ・ Symphonie Fantastique ・ RPO / Nézet-Séguin

ベルリオーズ : 幻想交響曲 Op.14
ベルリオーズ : 叙情的情景 「クレオパトラの死」 *

ヤニック・ネゼ・セガン/ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団
アンナ・カテリーナ・アントナッチ(ソプラノ) *

BIS/BIS-SACD-1800




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