"ヴィターリのシャコンヌ"から、ヴィターリの真実を見つめて... [2013]
ヴィターリと言えば、シャコンヌである。オルガンを伴奏に、ヴァイオリンがエモーショナルに歌い上げる、あの有名な作品... が、ヴィターリのシャコンヌ、ヴィターリとは関係の無い作品であることが判明している。そもそも、"ヴィターリのシャコンヌ"は、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を初演(1845)したヴァイオリニストで作曲家、バロック期のヴァイオリン作品の校訂も多く手掛けたダヴィッド(1810-73)が、ドレスデンで見つけた写筆譜(18世紀前半、ドレスデンの宮廷楽団で写譜の仕事をしていたリントナーによる音楽であるとのこと... )をアレンジしたもの。その写筆譜に、「トマゾ・ヴィタリーノ(ヴィターリの息子、トマゾ)の楽譜」とあったため、"ヴィターリのシャコンヌ"として、ダヴィッドが世に送り出す。いや、何とも複雑で皮肉な話し... ダヴィッドによるフェイク・ヴィターリが、「ヴィターリ」という名をクラシックの世界に刻んだのだから... 一方で、刻むだけのインパクト、"ヴィターリのシャコンヌ"には確かにある。心、揺さぶられる音楽です。シャコンヌ。久々に聴くと、余計に...
ということで、ステファニー・ド・ファイー率いる、古楽アンサンブル、クレマティスによる、ジョヴァンニ・バティスタとトマゾ・アントニオのヴィターリ親子の器楽作品集、"CIACONNA"(RICERCAR/RIC 326)。"ヴィターリのシャコンヌ"を扉に純正ヴィターリを聴く。
ワーグナー、恋愛禁制。 [2013]
16世紀末、イタリア、フィレンツェのエリートたちによる、ギリシア悲劇を復活させようという試みに始まるオペラの歴史。1600年、フィレンツェの宮廷の婚礼で、最新の総合芸術としてオペラが披露されると、オペラ制作はイタリア各地の宮廷に飛び火し、さらに、1637年、ヴェネツィアで一般市民向けにオペラの上演が始まると、一大ブームを巻き起こす!続く、18世紀は、何と言ってもナポリ楽派の時代!音楽学校の充実を背景に、歌手をセットで、全ヨーロッパに輸出されたナポリのオペラ。ロンドン、パリはもちろん、果てはサンクト・ペテルブルクまで、大いに沸かせることに... ある意味、この時こそが、イタリア・オペラの全盛期だったように思う。そうして迎えた19世紀、イタリアは、オペラの歴史に燦然と輝くスターたちを次々に送り出すわけたが... 一方で、音楽後発国、ドイツから、ワーグナーという怪獣が誕生。その存在は、オペラの歴史=イタリアだったそれまでの当たり前を打ち崩す。という風に見つめると、やっぱり、ワーグナーは、タダモノではなかったなと...
そんな、タダモノではなかったワーグナーの、オペラ怪獣への第一歩、オペラハウスへのデビューに注目してみようと思う。セバスティアン・ヴァイグレ率いるフランクフルト歌劇場による、ワーグナーの『恋愛禁制』のライヴ盤(OHEMS/OC 942)を聴く。
ヴェルディ、オベルト。 [2013]
ワーグナー(1813-83)と、ヴェルディ(1813-1901)が、同い年って、凄くない?歴史を見つめていると、時として、何か、大いなる意志が介在しているように思える瞬間がある。ドイツ・オペラの怪物、ワーグナーと、イタリア・オペラのアイコン、ヴェルディが、ともに、1813年(ちなみに、ロッシーニがブレイクを果たす年... )に生まれたということが、まさに!ワーグナーとヴェルディ、2人のライヴァル関係が、19世紀のオペラを大いに盛り上げたし、その盛り上がりは、オペラ史上、最大のピークを形成していることは間違いない。また、音楽の新たな中心となったドイツと、伝統国、イタリアという配置も効いている。そう、2人の活躍には、イタリアからドイツへ、という音楽史上のパラダイム・シフトが背景にあるわけで、何とも宿命的な2人... 一方で、伝統的であるヴェルディが、革新的だったワーグナーより長生きしたというのも、なかなか興味深い。それを、歴史が用意したある種の捻りと捉えるならば、下手な小説よりずっとおもしろく感じてしまう。事実は小説より奇なり。だなと...
ということで、若きワーグナーが初めて完成させたオペラに続いて、若きヴェルディのオペラ作家デビューに注目!ミヒャエル・ホフシュテッター率いる、ドイツ、ギーセン州立劇場によるライヴ盤で、ヴェルディのオペラ『オベルト』(OHEMS/OC 959)を聴く。
ワーグナー、妖精。 [2013]
オペラの歴史において、最もインパクトを残した存在は誰だろう?バロックの火蓋を切ることになるその誕生から、今、現在に至るまで、多くの作曲家がオペラを書き、伝説的な歌手たち、指揮者たちが、それぞれの時代を彩って来た。また、熱心なパトロンたちもいて、個性的なプロデューサーもいて、近年においては、演出家たちの活躍も際立つ... そんなオペラ400年の歴史をざっと振り返って、ひとりを選ぶというのは、なかなかにして無謀なことのようにも思う。が、ひとり選ぶとするならば、やっぱり、この人、ワーグナー(1813-83)... その影響は、オペラに留まらず、広く芸術全般に及び、熱狂的な支持者を生む一方で、アンチも生み出し、19世紀後半の芸術界を大いに掻き回した。こういう存在、なかなか他に探せないように思う。が、そんなワーグナーが残したオペラは、わずか10作品(『ニーベルングの指環』は、ひとつと数えることにします... )。同い年のライヴァル、ヴェルディ(1813-1901)が、30近い作品を残したことを考えれば、まずその少なさに驚かされる。いや、たった10作品で、最大のインパクト足り得ることが凄い... それだけ、中身の詰まった、どころか、ただならぬ密度を持ったオペラを世に送り出していたことになるか... 改めて、ワーグナーという存在の凄さを思い知らされる。
ということで、18歳のワーグナーが書いた、2つのピアノ・ソナタに続き、20歳のワーグナーが初めて書き上げた、オペラ... セバスティアン・ヴァイグレ率いるフランクフルト歌劇場による、ワーグナーのオペラ『妖精』のライヴ盤(OHEMS/OC 940)を聴く。
ワーグナー、ピアノ・ソナタ。 [2013]
やっぱり、"コロナ疲れ"、出てきたかも... で、考えた、コロナの何に疲れている?ステイホームじゃなくて、ステイホームによって視野に飛び込んで来る、メディアやツィッターに躍る血圧高めのワードの数々。目の前の話題にパっと飛び付いて、ギャァーッ!とやるやつ、アレ... ま、シャットアウトするまでの話しなのだけれど、やっぱり目に入る。目に入って、振り回されて、疲れるんだなと... もちろん、コロナ禍という目の前のことから逃れることはできないのだけれど、より広い視野を持って、先を見据えて、そろそろアフター・コロナのことも考えつつ、ギャァーッ!ではなくて、建設的にならないといけないように思う(ギャァーッ!で、解決できたためし無し... )。一方で、これまで変わることができなかったことが、あっさり変わることができたり、新しい動きもいろいろ見受けられて、そういうトピックには救われる。いや、今、我々は、時代の変わり目に立っているのだなと... ある意味、ギャァーッ!は、旧時代の終わりの断末魔の叫びなのかもしれない。なればこそ、新時代の芽にこそ注目したい!で、そんな気持ちを補強するために(?)、新時代を切り拓いた大家の若芽の作品を聴いて、リフレッシュ!
ということで、ワーグナーが、18歳の時に書いた、ピアノ・ソナタ... 1852年製、エドゥアルト・シュタイングレーバーのピアノで、トビアス・コッホが弾く、Op.1のソナタに、「大ソナタ」、Op.4(cpo/777800-2)を聴く。しかし、あのワーグナーが、ソナタですよ!
ベートーヴェン、月光、ヴァルトシュタイン、テンペスト。 [2013]
ステイ・ホーム、春と触れ合えない今年の春... ならば、春っぽい音楽を聴いて、元気出そう!ということで、モーツァルトの「春」に始まり、ウィンナー・オペレッタに、ウィンナー・ワルツと、春っぽい音楽、聴いて来ました。で、それら、ウィーンの音楽でありまして... 改めて、思う、ウィーンのサウンドというのは、どこか春っぽい?ウィーン古典派の音楽は、春のそよ風のようだし、シュトラウス・ファミリーの音楽は、春の野原へとピクニックに行くみたいだし、アカデミックなブラームスにも、春の陽気さ(大学祝典序曲やハンガリー舞曲のアゲアゲ・チューンとかね... )は窺えて、マーラー(花の章、とか、まさに... )や、ツェムリンスキー(『春の葬送』なんて作品も書いてます... 葬送なのがウィーン世紀末なのだけれど... )の濃密さには、春の爛熟を思わせる。何だろう?この春っぽさ、ウィーンの東の玄関口(ちなみに、オーストリアの正式名称は"エスターライヒ"、和訳すれば、東の王国... )としてのローカル性が、その音楽に、ある種の長閑さを生む?なんて考えてみるのだけれど... そう言えば、陰陽五行説、東を示す季節は、春なのだよね... 東の都は、春の都?なんてウィーンを見つめると、新鮮かも...
ということで、ウィーン古典派、最後の巨匠、ベートーヴェンに続きます。アレクセイ・リュビモフが、1802年製のエラールのピアノの復刻で弾く、ベートーヴェンの「月光」、「ヴァルトシュタイン」、「テンペスト」(Alpha/Alpha 194)。ここにも春はあるかな?
グラウン、復活祭オラトリオ。 [2013]
世界は、まさに受難の只中... そうした中で迎えた復活祭(昨日、日曜日が復活祭でした。からの、本日、嵐という展開... )。正直、ハッピー・イースターどころではない。ものの、窓の外には、穏やかな春が広がって、イエス様の復活ばかりでなく、自然の復活=春の到来を告げる復活祭でもあることを思い出させてくれる、この春の陽気(今日は寒いけれど... )。でもって、みんなが家に籠って生まれた静けさに漂う春の麗らかさは、いつもより際立つものがあるような気がして... 状況こそ最悪でも、窓を開けて感じられる(先日、我が家には、思い掛けなく、桜の花びらが舞い込んできました!)、その麗らかさに癒される。癒されて、再確認する。必ず春はやって来る、と... そう、籠っていれば、必ず復活の日がやって来る。籠れば、籠った分、早くやって来る。
そんな期待を籠めて... マイケル・アレクサンダー・ヴィレンズ率いるケルン・アカデミーの歌と演奏で、グラウンの復活祭オラトリオ(cpo/777 794-2)です。バロックを脱し、麗らかな古典主義の到来を告げるその音楽は、今の我々を勇気付けてくれる!
テレマン、ルカ受難曲。 [2013]
緊急事態宣言、出ました。が、出ようが、出まいが、我々がやるべきことは、何も変わりません。不要不急の外出を控え、3密避けての、手洗い、マスク... これらを淡々とやるのみ。で、やり切れば、やり切っただけ、早くこのトンネルから抜け出せるわけです。無駄に多いコメンテーターのコメントや、微妙なネットに漂う情報はシャットアウト。ただトンネルの先だけを目指して突き進むのみ。で、その歩みに集中するために今日も音楽を聴くわけです。さて現在、四旬節中... コロナですっかり吹っ飛んでいましたが、教会歴では、今、まさに、四旬節の山場、聖週間(キリストの受難を辿る週間... )を迎えております。ということは、まさに受難曲を聴くべき週間ということになります。いや、この受難の日々の最中、今こそじっくり聴いてみたい受難曲かも...
しかし、バッハではありません。マイケル・アレクサンダー・ヴィレンズ率いる、ケルン・アカデミーの演奏と合唱、ソリストにはドイツの歌手を手堅く揃えての、テレマンのルカ受難曲(cpo/777 754-2)を聴く。そう、テレマンも受難曲を書いておりました。
リース、信仰の勝利。 [2013]
さて、2020年は、ベートーヴェンの生誕250年のメモリアル!となれば、やっぱりベートーヴェンをいろいろ聴いてみたい... のですが、当blog的には、もう少し視点を広げまして、ベートーヴェンの周辺にも注目してみたいなと... いや、"楽聖"と呼ばれるベートーヴェン、その存在は燦然と輝き、あまりの眩しさに、周辺があまりよく見えて来ない。例えば、モーツァルトの隣には、ハイドンという大きな存在がいて、サリエリというライヴァルもいて、モーツァルトのストーリーを大いに盛り上げる。また、そうした、モーツァルトの周辺にいた作曲家たちの作品に触れることで、モーツァルトが生きた時代を、活き活きと感じ取ることができるように思う。で、ベートーヴェンはどうだろう?いや、ベートーヴェンをよりリアルに感じるためにも、同時代の音楽を聴くことは意義深いように思うのだけれど、なかなか難しいのが現状。ならば、このメモリアルこそ、注目してみたいなと...
ということで、ベートーヴェンと同じボンの出身で、弟子、フェルディナント・リースに注目!ヘルマン・マックス率いる、ダス・クライネ・コンツェルトの演奏、ライニッシェ・カントライのコーラスで、リースのオラトリオ『信仰の勝利』(cpo/777738-2)を聴く。
ル・プランス、ミサ、汚れは御身のうちにあらず。 [2013]
フランス・バロックというと、とにもかくにもヴェルサイユ!国王を頂点に、音楽官僚たちが織り成した宮廷音楽がそのイメージを形作っている。で、実際、オペラなど、宮廷の作曲家に独占上演権が与えられ、見事な一極集中!が、国中に教会があって、それぞれにオルガニストがいて、聖歌隊があって、ヴェルサイユとはまた違う音楽を歌い、奏でてもいた史実。ヴェルサイユがあまりにも燦然と輝くものだから、なかなか見えて来ない地方の状況なのだけれど... かのラモーは、リヨンやディジョンで活躍した後にパリへとやって来たわけだし、レクイエムの名作(後に、国王の葬儀でも歌われた... )を書いたジルは、トゥールーズの大聖堂の楽長だった。必ずしも、パリやヴェルサイユばかりがフランス・バロックではなかった。というより、地方の充実に支えられてこそのヴェルサイユであり、パリだったようにも思う。そんなフランス・バロックの地方をちょっと覗いてみる。
ということで、17世紀、フランス、ノルマンディー地方、リジューの大聖堂の楽長を務めていた、ル・プランスのミサ... エルヴェ・ニケ率いる、ル・コンセール・スピリチュエルの歌と演奏で、ミサ「汚れは御身のうちにあらず」(GLOSSA/GCD 921627)を聴く。