ヴェクサシオン。 [2020]
一般的に、クラシックは、真面目で、お上品で、時に難しく、高尚だなんてイメージもございますが、けして、みんながみんなそうではございません。中には、トンデモないものも存在しております。ストを形にしてしまったハイドン(1732-1809)の45番の交響曲、「告別」とか、サイコロを振って音楽の展開を決めるモーツァルト(1756-92)の「音楽のサイコロ遊び」とか... さらに踏み込み占いで音楽の形を決めていく、つまり一合一会の作品、『易の音楽』を書いた実験音楽の騎手、ケージ(1912-92)は、無音の作品、「4分33秒」なんて、もはや音楽ではない作品も残しております。そうした数々の奇作の中でも、異彩を放つ作品が、サティ(1866-1925)の「ヴェクサシオン」。ま、ケージにも影響を与えるほどの奇才だけに、「ヴェクサシオン」ばかりが奇作ではないのだけれど、サティの指定通りに「ヴェクサシオン」を演奏するとトンデモないことになる!そのトンデモなさは、クラシック切ってのもの...
ということで、「ヴェクサシオン」に注目!小川典子が1890年製のエラールのピアノで繰り広げるサティのシリーズから、「ヴェクサシオン」のみを取り上げるという凄いアルバム、VOL.3 (BIS/BIS-2325)を聴く。
"vexation"、仏和辞典を引くと、自尊心を傷つけること; 侮辱、とある。というタイトルなのである、「ヴェクサシオン」。もう少し分かり易く、嫌がらせ、なんて意訳がなされることもあるのだけれど... 何だか壊れてしまったような、不安を掻き立てる謎めくテーマ、1分強を、840回も繰り返せという、まさしく嫌がらせとしか思えない作品なのである。ちなみに、単純計算で1分×840回=14時間。その初演、1963年9月9日、ニューヨーク、ケージを中心とした12人のピアニスト(デイヴィッド・テューダー、ジェイムズ・テニー、クリスチャン・ウォルフら、アメリカの戦後"前衛"を彩った作曲家たちが結集!何気に、豪華... )たちにより、夕方の6時にスタート、リレー形式で弾きつながれて、律儀に840回、翌日の昼過ぎまで掛かったとのこと... うん、まさに嫌がらせ。てか、これは、本当に弾くべき作品なのだろうか?という疑問が湧いて来る。けして魅力的とは言えないテーマと、840回の繰り返しという指示を振り返れば、そのトンデモな状況こそが作品であって、何かコンセプチュアル・アートに通じる感覚を見出せる気がする。つまり、音楽ではない音楽作品... 作曲家が意図したかどうかはともかく、これは、音楽の枠すら超えた、恐ろしく先鋭的な表現形態なのかもしれない。という「ヴェクサシオン」が作曲されたのは、1895年頃と考えられている。まさに世は世紀末、ロマン主義が煮詰まり、ドロドロとなって、象徴主義がそこから怪しげな湯気を立たせ、プレ・モダンとしての印象主義が、その周りでわちゃわちゃと始めた頃である。そういう中で、演奏を度外視したヴィジョン(それこそケージの時代の実験音楽を予感させるような... )を提示したサティの先鋭性、凄過ぎる(ま、サティだけに、ただの嫌がらせ、あるいは、そもそも意味などないのかも... )。
そんな「ヴェクサシオン」と、ガチで向き合ってしまった小川典子。アルバム、一枚、丸々使って、142回、繰り返します(1枚で142回というのが、また興味深い!単純計算で840÷142は6弱。つまり「ヴェクサシオン」を完全に録音すると6枚組... )。いや、「ヴェクサシオン」は、多くのピアニストが録音しているけれど、それらは、どれも、数回、繰り返して、アルバムにアクセントを加えるようなもの... 「ヴェクサシオン」だけで、一枚のアルバムを出してしまうなんて、それこそ嫌がらせじゃないのか?!いやいやいや、ピリオドのピアノが、この嫌がらせに魔法を掛けてしまうから、おもしろい!1890年製のエラールのピアノ、その製作年代を見れば、モダンのピアノとそう距離感は無い。が、そこはかとなしに感じられるアンティークさ... モダンのピアノに比べると、わずかに仄暗く、それでいて、ちょっとぶっきら棒にも思えるその響きは、サティの音楽のしょうもなさのようなものを素直に表現し、かえっておもしろさを引き立てる。ま、引き立てると言っても、けして魅力的とは言えない短いテーマなのだけれど... が、それを、魅力的にまでに引き上げてしまう小川典子がさらに凄い!ちょっと無機質で、機械仕掛けっぽく始めながら、じわーっと表情を変えていき、何か大きなうねりのようなものを創り出す。そのうねりに飲み込まれれば、エンドレス・ループに陥ってしまったヒッチコック作品の登場人物になってしまった気分。いや、ただの繰り返しではない、そこはかとなしに感じられるドラマ性の興味深さ... その、どこか芝居掛かった雰囲気の味わい深さ... 「ヴェクサシオン」に、そういう風景をもたらした小川典子の音楽性に、脱帽。そして、思い掛けなく、楽しんでしまった。いや、楽しめるものなのだなと...
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