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没後50年、リャトシンスキー。 [2014]

メモリアルを派手に祝われる大家の一方で、メモリアルを切っ掛けに、再発見する作曲家もいる。いや、普段、なかなか注目され難いマニアックな存在こそ、メモリアルの意味合いは重要になって来ると思う。でもって、当blog的には、マニアックなメモリアルこそ祝いたい!ということで、没後50年のピツェッティ(1880-1968)、カステルヌウォーヴォ・テデスコ(1895-1968)、生誕100年のツィンマーマン(1918-70)と、注目して来たのだけれど、いずれもメインストリームから外れた存在で、普段ならスルーされがち?なのだけれど、改めて見つめるその存在は、思い掛けなく味わい深かったり、インパクトを放っていたりで... またその音楽に、より時代を感じるところもあって... いや、この3人が歩んで来た激動の20世紀に、感慨を覚えずにいられない。そして、翻弄される作曲家たちが愛おしくなってしまう。で、もうひとり、激動の20世紀を生き作曲家に注目してみる。
没後50年を迎える、ロシア革命の混乱を乗り越え、ソヴィエトを生きた、ウクライナの作曲家、リャトシンスキー... テオドレ・クチャルの指揮、ウクライナ国立交響楽団の演奏による、リャトシンスキーの全5曲の交響曲、1番(NAXOS/8.555578)、2番と3番(NAXOS/8.555579)、4番と5番、「スラビャンスカヤ」(NAXOS/8.555580)の3タイトルを聴く。


大戦、革命、内戦、混乱の中の卒業制作、1番の交響曲。

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ボリス・ミコライヨヴィチ・リャトシンスキー(1895-1968)。
ウクライナの首都、キエフから西へ100Kmほど行った街、ジトームィル(当時はロシア帝国領... )で、教育者だった父(ジトームィルや周辺の町のギムナジウムの校長先生を歴任... )と、ピアノが得意な母の下に生まれリャトシンスキー。音楽好きの両親の影響もあり、やがてヴァイオリンとピアノを学ぶように... 14歳の頃には、すでに作曲もこなし、後の片鱗を表し始める。そんなリャトシンスキーは、1913年、キエフ大学に進み、法学を学びつつ、翌年からは、創設されて間もないキエフ音楽院でも学び始め、グリエール(1875-1956)に師事、本格的に音楽を志す。のだったが、まさにその年、1914年、第1次大戦が勃発!さらに、1917年には、ロシア革命。ロシア帝国の瓦解は、ウクライナに独立のチャンスをもたらすものの、ウクライナの地は、右派、左派の各勢力が割拠し、内戦状態に突入... この内戦が外国の介入を招き、ロシア帝国に取って代わったソヴィエトからの干渉も受け、第1次大戦は1918年に終わるものの、ウクライナの領有を巡って、ポーランド・ソヴィエト戦争(1919-21)が続いた。そうした中、卒業制作として作曲され始まるのが、1番の交響曲(track.1-4)。
スクリャービンの交響曲を思い出させるトーンも、あちこち見受けられながら、ロシア流のロマンティシズムに彩られた、充実の交響曲。けして、ロシア・アヴァンギャルドのようなインパクトを放つわけではないけれど、交響曲らしいスケール感がしっかりあって、地に足の着いた音楽を展開し、全体に漂う仄暗さは東欧ならではの空気感だろうか?とはいえ、そのサウンドは透明感を失わず、常に瑞々しさを湛えている。このあたりには、より西欧に近いウクライナの音楽的感性を見出せる気もする。ま、終楽章(track.3)で、民俗調なノリのライトな賑やかしを繰り出されてしまうと、ちょっとチャイコフスキー風過ぎるかなと感じなくもないのだけれど、それでも、魅了されずにいられない交響曲!いやー、卒業制作ですよ。で、この聴き応え!交響曲として完成するのは、戦争が全て終結した後の1923年とのことだけれど、それでも、ウクライナ、大混乱の中、自らの創作に、しっかりと集中できていたのだなと... 若いからこその音楽に対する直向きさに、感じ入るばかり...
だからか、その後で取り上げられる、1955年、リャトシンスキーがソヴィエトの巨匠となってからの交響的バラード「グラジーナ」(track.4)の手堅さが、少し色褪せて感じられる。社会主義リアリズムという名の検閲に縛られていた時代の、不自由な音楽が持つ宿命ではあるのだけれど、危なっかしいところのない展開(リトアニアの神話に登場する女戦士、グラジーナの戦いと死を描く... )が、物足りない?もちろん、卒業制作からしたら見事な仕上がりで、丁寧にドラマの情景を描き、透明感を失わないサウンドは、未だしっかりと活きていて、惹き込まれるのだけれど、どこかソヴィエトっぽいのか... いや、一周回って、そのソヴィエトっぽさこそがツボ?リャトシンスキーの真面目さが、プロパガンダでしかあり得なかったソヴィエトの芸術性にはまり、ソヴィエトが消滅した今となっては、何とも言えぬヴィンテージ感を放ち、魅惑的。

LYATOSHYNSKY: Symphony No. 1 ・ Grazhyna

リャトシンスキー : 交響曲 第1番 イ長調 Op.2
リャトシンスキー : 交響的バラード 「グラジーナ」 Op.58

テオドレ・クチャル/ウクライナ国立交響楽団

NAXOS/8.555578




「社会主義リアリズム」、検閲下での作曲、2番、3番。

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さて、リャトシンスキーは、1919年、キエフ音楽院を卒業すると、翌、1920年、26歳の時から、母校の教壇に立つ。さらに1922年には、現代音楽協会の監督に就任し、当時の現代音楽、プロコフィエフ、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ベルク、バルトークらに注目、そうした音楽を意欲的に紹介するとともに、ウクライナの西で起こっている音楽の革新から様々に学んだ。時代は、まさにロシア・アヴァンギャルドの時代、ソヴィエトにおけるあらゆる芸術が真に革命的で、刺激に充ち満ちていた頃、リャトシンスキーの創作もまた新たな時代への希望に溢れていたはず... そうした時代の集大成的作品となるのだろうか、1936年に完成した2番(track.1-3)の交響曲... 始まりはバルトークを思わせるようで、プロコフィエフを思わせる色彩感、重厚感も響いて来て、新ウィーン楽派流の表現主義を感じさせるダークさもあり、1920年代の革新がしっかりと咀嚼されていて、濃密。1番から早十数年、作曲家としての確かな成長がある。が、重苦しい... 1番が完成されてから2番が作曲されるまでのウクライナの状況は、ソヴィエト中央からの圧迫(ポーランド・ソヴィエト戦争の余波... )と、ソヴィエトの無謀な農業政策の破綻による飢饉で、多くの犠牲者を出し、極めて厳しいものだった。そのあたりが、そこはかとなしに反映されているのだろう、2番の重苦しさ... が、リャトシンスキーには、より直接的な危機が迫る!
3番が完成された年、ソヴィエト楽壇は、ショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(1934)を巡って、大きく揺れる。プラウダ批判!それは、スターリンの恐怖政治による芸術家たちの自由な創作に対する干渉。「社会主義リアリズム」という名の検閲の始まり。当然、リャトシンスキーも厳しい立場に追い込まれ、3番は検閲を通過せず、初演は断念。以後しばらく作品を発表する機会は奪われ、教育に力を注ぐことに... やがて、第2次大戦(1939-45)が勃発。厳しい時代を経て、1951年、再び交響曲に挑んだのが3番(track.4-7)。「社会主義リアリズム」に即した明快な響きの下、古典へと回帰し、戦争と勝利と平和を、交響曲という形で表現。スターリンの御眼鏡にも適うだろう立派な交響曲に仕上げている。となると、体制に媚びた安っぽい音楽?いや、たとえ解り易い表現を用いながらも、音楽に対するリャトシンスキーの真摯な姿勢がその全ての音から感じられ、かえって交響曲として引き締まった印象をもたらすから、凄い。また、ショスタコーヴィチと同時代の交響曲であることの興味深さもあり、リャトシンスキーに触れることで、時代がより立体的に蘇るよう。
一方、ショスタコーヴィチよりも透明感のあるリャトシンスキーの響きに魅了される。それは、「社会主義リアリズム」というだけではない、1番の交響曲を思い起こさせる瑞々しい響きで... 改めて、ウクライナ・サウンド?なんて言ってみたくなるセンス。かつて、モスクワやサンクト・ペテルブルクの宮廷礼拝堂の聖歌隊のメンバーには、ウクライナ出身者(例えば、ボルトニャンスキー!)が多かっただけに、ロシア文化圏におけるウクライナの音楽的特異性のようなものを見出せる気がする。

LYATOSHYNSKY: Symphonies Nos. 2 and 3

リャトシンスキー : 交響曲 第2番 Op.26
リャトシンスキー : 交響曲 第3番 ロ短調 Op.50

テオドレ・クチャル/ウクライナ国立交響楽団

NAXOS/8.555579




雪融けて、4番、そして、達観、最後の交響曲、5番...

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1953年、徹底した独裁によって恐怖政治を布いたスターリンが世を去ると、ソヴィエトにはある種の揺れ戻しが起こる。1956年のスターリン批判を皮切りに、体制による締め付けは緩み... 国際関係においても、東西冷戦は雪融けの兆しを見せ、スターリン亡き後、政権を掌握したフルシチョフがアメリカを訪問(1959)するなど、対話路線がしばらく続く(1962年にキューバ危機が起こり、一時、世界は核戦争の恐怖に怯えたが... )。そうした中、東西の音楽交流の扉は開かれ、ソヴィエトの音楽家たちは西側の音楽に触れる貴重な機会(1962年、ストラヴィンスキーがソヴィエトを訪問... )を得た。ならば、ソヴィエトの音楽にも革新の可能性が広がる、はず... という頃、1963年に作曲されたのが、4番(track.1-3)の交響曲。お蔵入りとなった2番を思い起こさせる不穏さに包まれながら、遅ればせながらの20世紀前半のモダニズムが堂々と展開され、表現主義的な独自の音楽世界を構築。そこには、やりたかった音楽がとうとうできた!そういう達成感のようなものが伝わって、感慨深い。で、特徴的なのが2楽章(track.2)、ロシア正教会の鐘の音が鳴り響くところ... 西欧には無い東方の煌びやかさが立ち現れ、ミステリアス... ふとシマノフスキ(ウクライナに領地を持つポーランド系の貴族... )を思い出させるところもあり、おもしろい。表現主義と東方性の融合、これがリャトシンスキーの到達点だったか...
さて、4番がレニングラード(現在のサンクト・ペテルブルク... )で初演されると、1964年、お蔵入りだった2番が満を持して発表される。これから、ソヴィエトの創作環境も、ますます良くなって行くのか?と思いきや、その年、いろいろ寛容過ぎたとしてフルシチョフが失脚。ソヴィエトは、再び暗く停滞した頃へと逆戻り... という1966年に完成したのが、リャトシンスキー、最後の交響曲、5番、「スラビャンスカヤ」(track.4-6)。スラビャンスカヤ=スラヴ風の交響曲は、スラヴ圏に伝わる民謡や舞曲を素材に編んだ、少し乱暴なヤナーチェクのような仕上がり... その民俗的なあたりに「社会主義リアリズム」への回帰を思わせなくもないのだけれど、そこまで優等生でもなく、独特なぶっちゃけ感を見せて、驚かされる。一方で、イリヤ・ムーロメツ(ロシアの叙事詩に登場する英雄... )を歌う、古謡をテーマとし、循環形式のように全体をまとめ、ひとつの物語を展開して来るようでもあり... スラヴ圏を舞台に繰り広げられる、イリヤの冒険譚?リャトシンスキー版、『ペール・ギュント』なんても言ってみたくなる音楽。いや、老境のリャトシンスキーの達観が、そうした音楽に表れているように感じる。
そんな、リャトシンスキーの全5曲の交響曲を聴かせてくれた、クチャルの指揮、ウクライナ国立響の演奏!ウーン、見事です。ウクライナにルーツを持つアメリカの指揮者、クチャルと、当然ながら、リャトシンスキーと縁の深いウクライナ国立響... ウクライナの音楽の誇りが結晶になったような響きで、5つの交響曲、それぞれの魅力をしっかりと引き立てる。で、特に印象深いのが、ウクライナ国立響の、思いの外、澄んだサウンド!ここでも、ウクライナ・サウンドというものを感じてしまう。ロシアのようでロシアではない、ウクライナの独自性を、改めて意識させられる。で、この録音、ウクライナ独立間もない1993年のもの... ソヴィエトが崩壊し、大変な時期だったはずなのに、このクウォリティー!そこにも、感動...

LYATOSHYNSKY: Symphonies Nos. 4 and 5

リャトシンスキー : 交響曲 第4番 変ロ長調 Op.63
リャトシンスキー : 交響曲 第5番 ハ長調 「スラビャンスカヤ」 Op.67

テオドレ・クチャル/ウクライナ国立交響楽団

NAXOS/8.555580




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