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ドビュッシーのピアノ作品をエラールのピアノで聴く。 [2018]

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今年、ドビュッシーは、没後100年のメモリアルを迎えたわけだけれど、この100年というのが、ちょっともどかしく感じられる。それは遠いようで、近いような、どちらにも取れる微妙な距離感で... そういう微妙な位置にある作曲家を、ピリオド・アプローチで捉える。少し前なら、衝撃を受けたものの、今となっては、ドビュッシー後の時代を彩った作曲家たち、プーランクやガーシュウィンもピリオドの範疇。モダン楽器と古楽器、というような、対立する解り易い構図は存在しない。楽器にしろ、奏法にしろ、常にうつろっていたのが音楽史の真実であって、そのうつろいに繊細に寄り添うことで、ひとつのピリオド=時代が息を吹き返し、音楽はより息衝いて響き出すような気がする。それは、モダンにも言えることで... モダンの先にコンテンポラリーが存在する今、モダニズムにはヴィンテージな感覚が漂い、ある種の懐かしさとともに、新たな魅力を纏いつつあるのかも...
ということで、ピリオドによるドビュッシーがまだ衝撃的だった前世紀末にリリースされた、スタニー・デイヴィッド・ラスリーの、ヴィンテージのエラールのピアノで弾く2つのアルバム、『ピアノのために』、『版画』、『映像』、『こどもの領分』を集めた1枚と、2つの『前奏曲集』を収めた1枚を、没後100年のメモリアルに合わせ再リリースされた2枚組(ARCANA/A 445)で聴く。

1枚目、『ピアノのために』(disc.1, track.1-3)に始まり、『版画』(disc.1, track.4-6)、「喜びの島」(disc.1, track.7)、2つの『映像』(disc.1, track.8-10/11-13)、そして、『こどもの領分』(disc.1, track.14-19)と、多彩なドビュッシーのピアノ作品を1921年製のエラールのピアノで... 2枚目、「レントよりもおそく」(disc.2, track.13)を挿んでの、2つの『前奏曲集』(disc.2, track.1-12/14-25)を、1874年製のエラールのピアノで聴くのだけれど、ピアノが製作された年と作品が作曲された年を丁寧に見つめ、そこはかとなしに感じられる感触の違いが、まず、何とも興味深い... 1枚目の作品は、19世紀末から20世紀の初頭に掛けての作品、ドビュッシーがモダニズムの扉を叩いた頃の音楽を、ドビュッシーの死から間もない、第1次大戦後、モダン・エイジが始動する1921年に製作されたピアノで軽やかに捉えて... 2枚目は、ドビュッシーが名声を得た頃、第1次大戦前の作品を、ドビュッシー、12歳の年(その時、すでにコンセルヴァトワールで学んでいた!実は、天才少年、ドビュッシー... )、1874年に製作されたピアノで、19世紀の詩情を滲ませながら響かせる。オーセンティックに、それぞれのピリオド=時代に迫るのではなく、ちょっと捻り(より古い作品を新しいピアノで、新しい作品をより古いピアノで弾く... )が加わり、より拓けた視野が広がるのか... 1874年製、1921年製という、半世紀弱を隔てた2つの視点が、ドビュッシーの音楽に新たなケミストリーを生み、ヴィンテージを越えた魅力を響かせる!
何より、2つのピアノの響きの違いがおもしろい... わずか半世紀弱とはいえ、そこはかとなしに違いが生まれており、それはまた単に楽器が進化しただけでなく、それぞれの時代の気分がそれぞれの響きに籠められているようで... 1921年製のピアノは、軽く明るい音色が印象的で、今ある聴き馴染んだグランド・ピアノのゴージャスなサウンドからすると、ちょっと醒めていて蓮っ葉な感じがするのか... ポスト・ドビュッシーの時代、狂騒の1920年代の気分が感じられるよう。で、おもしろいのは、ドビュッシーの死後に誕生したピアノの、ある種の軽薄さが、ドビュッシーの洒脱さ、印象主義ならではの点描的な響きが生む瑞々しさを引き立て... そうしたピアノの性格を活かすラスリーの軽やかでリズミックなタッチがドビュッシーの音符を捉まえると、擬古典主義を思わせる軽妙な表情が浮かび、歯切れが良く、心地良い。その心地良さは、ドビュッシーという存在をピリオド=時代から解放するようで、不思議。フランソワ・クープランを感じながら、ニュー・エイジに聴こえて来るドビュッシー... クラシックという型枠、音楽史という物差しでは推し量れない作曲家像が露わになり、はっとさせられる。何より、驚くほど新鮮に感じられ、そこに並べられた音楽が、今、生まれたような、そういう初々しさを放ってしまうから、凄い。
という1921年製のピアノの後で、1874年製のピアノを聴くと、驚くほどしっとりしていて... 2枚目の始まり、『前奏曲集』、第1巻、冒頭の、「デルフォイの舞姫」(disc.2, track.1)、その最初の一音からため息がもれてしまう。まさにピリオドのピアノ... 明瞭でない響きが、春霞みのように音符を包み、作品に魔法を掛ける。すると、印象主義という看板よりも、世紀末的な象徴主義の精神が前面に表れ、ドビュッシーの深淵を覗き込むかのよう。そこには、ワーグナーやムソルグスキーといった過去が底流し、19世紀的な重力に支配され、味わい深い世界が展開される。どこか刹那的なドビュッシーの音楽が、突如、神話のように謎めいた物語を語り出す。そんなイメージを紡ぎ出す19世紀のピアノ... ラスリーのタッチも重みを増し、19世紀的な仄暗さを織り込んで、『前奏曲集』によりスケール感を生み出すのか... おもしろいのは、さらに新しいフィールドへと踏み出そうとする第2巻(disc.2, track.14-25)。19世紀の重力と、20世紀の新しさがもどかしくもつれ合って、象徴主義は表現主義に変容し、狂気が滲む。それは、戦争の惨禍と、作曲家の死を予兆するようで、じっとりと迫って来る。
しかし、2台のピアノを駆使して、見事に2つのドビュッシー像を見せてくれるラスリーの器用さに感心してしまう。飄々とピアノに向き合うようでいて、より深いところから、普段、隠れている大きなストーリー、あるいはストリームを汲み上げるような迫力も聴かせ、ちょっとただならない。この人は、一体、何者?!ラスリーのアルバムでありながら、そのプロフィールが記載されておらず... この人について、いろいろ検索を掛けてみるも、ARCANAで3つのドビュッシーのアルバム(内2つを、2枚組として再リリースされたものが、ここで聴くもの... )をリリースしているということしか、情報は掴めず... 今の時代に、そんなピアニストがいるのか?ちょっと、にわかには信じ難い謎過ぎる存在、ラスリー。いや、「スタニー・デイヴィッド・ラスリー」という名前、映画監督の「アラン・スミシー(様々な要因で、作品に自らの名前をクレジットできない、あるいは、したくない人が使う名義... )」のようなものなのか?ということで、どういう人なのか、誰か教えて!

DEBUSSY ・ PIANO MUSIC
STANY DAVID LASRY


ドビュッシー : ピアノのために *
ドビュッシー : 『版画』 *
ドビュッシー : 喜びの島 *
ドビュッシー : 『映像』 第1集 *
ドビュッシー : 『映像』 第2集 *
ドビュッシー : 『こどもの領分』 *

ドビュッシー : 『前奏曲集』 第1巻 *
ドビュッシー : レントよりもおそく *
ドビュッシー : 『前奏曲集』 第2巻 *

スタニー・デイヴィッド・ラスリー(ピアノ : 1874年製、エラール */1921年製、エラール *)

ARCANA/A 445




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