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カルメンでもアルルでもないビゼー、交響曲から見つめる。 [2010]

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バロック期、太陽王の豪奢な宮廷を飾るため、ヴェルサイユで大輪の花を咲かせたフランスの音楽だったが、その成果はパリにも持ち込まれ、パリっ子たちを沸かせることに... で、このパリっ子たちの音楽的欲求の高まりが、パリの音楽シーンを、ヨーロッパ随一の繁栄へと至らしめ、フランスの音楽の中心は、ヴェルサイユからパリへと移る。が、18世紀、音楽の都となったパリを目指して、ヨーロッパ中から歴戦の巨匠たちが集まるようになると、フランスの作曲家たちは、押され気味に... その傾向は、革命の混乱を乗り越えた19世紀に入ってより強まり、ヨーロッパの第一級の音楽家たちはみなパリを拠点とし、パリの音楽シーンの地位の高まりとは裏腹に、フランスの音楽は勢いを失ってしまう。が、そうした流れもやがて変わり始める... 19世紀半ば、フランスの音楽は、次々に新しい才能が誕生し、息を吹き返し始める。それを象徴する存在が、2人の天才!前回、聴いた、13歳にしてコンセルヴァトワールに入学したサン・サーンス(1835-1921)。サン・サーンスとともに、1848年、コンセルヴァトワールに入学したビゼー(1838-75)。でもって、ビゼーは、さらに若く、9歳での入学!
ということで、サン・サーンスに続いての、ビゼー... でもって、カルメンでもアルルでもないビゼー... パーヴォ・ヤルヴィが昨年まで率いたパリ管弦楽団の演奏で、ビゼーの交響曲、管弦楽版の『こどもの遊び』、交響曲「ローマ」(Virgin CLASSICS/6286130)を聴く。いや、桜も終わり、春、本番を迎える中、より花やかな音楽を聴いてみたくなっての、フランスの音楽!

フランスの音楽史を振り返った時、最も優等生的に感じられるのは、サン・サーンス(1835-1921)かなと... 10歳でのピアニスト・デビューに始まり、コンセルヴァトワールで学び、優秀な成績を収め、エリート街道まっしぐら!なのだけれど、フランスの作曲家には欠かせない、ローマ賞を受賞していないのが、そのキャリアの興味深いところ。1852年と1864年、二度、チャレンジするも、いずれも賞を逃してしまう。対して、ビゼーは、1856年、18歳で初挑戦、翌、1857年、19歳の時、受賞... という2人の音楽性を考えた時、カンタータの作曲が課題となるローマ賞には、後にフランス・オペラの代名詞とも言える傑作を生み出すビゼーこそ有利だったと言えるのかもしれない。時代を少し遡って、ベルリオーズがローマ賞の課題として作曲したカンタータを聴くと、それはもうオペラのワン・シーン!そうしたあたりを考えると、ローマ賞というものは、優れたオペラ作家を発掘するためのものだったと言えなくもない気がして来る。もちろん、サン・サーンスにも『サムソンとデリラ』という傑作があり、歌モノでも才能を発揮した作曲家ではあるのだけれど、どちらかというと、歌以外で活躍した印象が強い。いや、だからこその優等生... 交響曲や協奏曲、室内楽に、教会音楽まで、何でも器用に作曲できたサン・サーンスは、ローマ賞という規格に納まらなかった存在であり、19世紀後半、オペラ、バレエへの傾倒から脱し、よりバランスの取れたフランスの音楽が息を吹き返す頃の象徴と言えるのかもしれない。一方のビゼーは、どうだった?
どうしても、『カルメン』という傑作で語られてしまうビゼーなのだけれど、実はピアノの名手でもあって、リストのようなヴィルトゥオーゾにもなれただろう技術を持ち合わせていたことは、あまり語られない。それでいて、コンセルヴァトワールでは、サン・サーンスに負けず成績優秀。在学中、1855年には、交響曲を作曲するほどで、けして歌モノばかりではなかった。で、その交響曲(track.1-4)を改めて聴いてみれば、ビゼーの豊かな才能に驚かされることに... メンデルスゾーンを思わせる明快で軽やかな1楽章から、すっかり魅了されてしまうのだけれど、続く、2楽章、アダージョ(track.2)では、フランスならではのメローなセンスに彩られながら、ロココの昔へと還るような優雅さがあり、ベートーヴェンを思わせる雄弁さも見せて... コンセルヴァトワールで学んでいたのだろう様々な要素を綺麗に結び、後のカルメンやアルルを思わせるメロドラマティックなテーマを登場させ、掴みもOK!その卒の無さに舌を巻く。そこから、ちょっと田舎っぽい3楽章、スケルツォ(track.3)が続き、どことなしに国民楽派を臭わせて、終楽章(track.4)では、その当時、一世を風靡していたオッフェンバックのような軽妙さに彩られ、楽しさが弾ける。という具合に、盛りだくさんなビゼーの交響曲!盛りだくさんさなのだけれど、巧みにひとつにまとめられ、とても学生の作品とは思えない洗練を感じさせる。いや、これが17歳の作品とは...
さて、コンセルヴァトワールを卒業する年、1857年、ローマ賞を受賞したビゼーは、ローマ留学(1858-60)へ。さらにイタリア各地を巡り、そこからインスピレーションを得て作曲されるのが、交響曲「ローマ」(track.10-13)。やはりローマ留学により生まれたベルリオーズの「イタリアのハロルド」や、イタリアへのグランド・ツアーの情景をまとめたメンデルスゾーンのイタリア交響曲に通じるものがあって、イタリアの色彩感、瑞々しさが、そこはかとなしに漂い、どこか旅するかのよう。なのだけれど、この作品、イタリア滞在中に構想が立ち上げられるも、なかなか納得の行く完成形には至らず、紆余曲折を経て、その死の4年前、1871年になって脱稿。となると、もはや人生を掛けての難産... そのせいか、交響曲として、焦点がぼけてしまった印象もあるのか... とはいえ、長い時間を掛けただけあって、それぞれの楽章は、しっかりと練られており、17歳の交響曲(track.1-4)には無かった豊かなイマジネーションに魅了される。情景を描き出す鋭敏な感性は、ビゼーならではのもの、ひとつひとつの楽章を丁寧に見つめれば、交響詩のようでもあり、交響曲を脱したポエジーを見出せる。
そんな、カルメンでもアルルでもないビゼーの魅力を、薫り豊かに引き出すパーヴォ!このマエストロならではの、独特なアプローチ、精緻にスコアを読み解きながら、作品を有機的に捉える感性が、ビゼーという作曲家の天才性を、新鮮さを以って詳らかにするようで、実に興味深い... 特に、それは、交響曲(track.1-4)で活き、17歳のビゼーが、何を素材に交響曲を完成させたかを成分分析するようなところもあり、ビゼーの音楽から次々に異なるイメージが浮かび、まるで万華鏡を覗くようにワクワクさせられる。またそのワクワクは、常にフランスの音楽ならではの花やぎに包まれていて、パリ管ならではのトーンも活かし切るパーヴォ... パリ管が放つ芳しさが、よりイマジネーションを掻き立てる『こどもの遊び』(track.5-9)、交響曲「ローマ」(track.10-13)で、瑞々しい表情、情景を描き出し、惹き込まれる。しかし、カルメンやアルルのドラマティックさから解き放たれたビゼーの素の姿の麗しいこと!ビゼーという存在を再発見する思い。

Bizet: Symphony - Jeux d'enfants - Roma
Orchestre de Paris / Paavo Järvi


ビゼー : 交響曲 ハ長調
ビゼー : 管弦楽のための小組曲 Op.22 「こどもの遊び」
ビゼー : 交響曲 「ローマ」

パーヴォ・ヤルヴィ/パリ管弦楽団

Virgin CLASSICS/6286130




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