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ポスト・リュリ、ニュー・エイジなクープラン。 [before 2005]

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えーっと、湯島天神の梅まつりに行ってきました。
ちょっと渋過ぎ?けど、みんな桜は見に行くよね?そんな風に考えたら、梅だってもっと見に行っていいはず... とか何とか言いながら、梅まつり初体験。いやー、梅干しではなく、梅の花を見るというのが、かなり新鮮だった。で、やっぱり、梅と桜は違うなと。似ているようで、違う。梅の花は桜の花に比べると小ぶりだからか、グっと枝ぶりが強調されるところがあって、引き締まった印象を受ける。華やかにして精悍。そんなイメージ。で、江戸時代における、梅=若衆というアレゴリーに、何だか合点がいった。しかし、江戸の人々の観察眼、物事を捉えるセンスって、冴えている。そんな日本のかつての姿、キリスト教近代主義に裏打ちされた作為的な「伝統」ではなく、日本が長い時間を掛けて育んで来たはずの豊かな感性、多様性というものに、今、もの凄く興味を覚える。現代日本社会には、今こそジャポニスムが必要な気がする。ナショナリズムではなくて、ジャポニスム。
とか書きながら、クラシックなんだなァ。説得力無し... ということで、音楽に話しを戻しまして、春、フランスを巡る、の続き... 梅のリュリの後の桜だろうか?ロココへとうつろう頃のたおやかさ... ウィリアム・クリスティ率いるレザール・フロリサン、ソフィー・ダヌマンとパトリシア・プティボンのソプラノで、クープランのルソン・ド・テネブル(ERATO/0630-17067-2)を聴く。

フランス・バロックを大成させたリュリ(1632-87)に続く世代、クープラン(1668-1733)なのだけれど、リュリとはまた違う音楽世界を繰り広げる。クープランの音楽には、どこかリュリ以前(例えば、ゲドロンとか... )へと戻るようなところがあって、よりフランス的に聴こえるから興味深い。そういうクープランのスタンスに触れると、リュリが大成したフランス・バロックというものが、本当に「フランス」だったのだろうか?という疑問が浮かぶ。結局、リュリはイタリア人だったのでは... そもそも「バロック」という現象が、極めてイタリア的なことだったのでは... 改めてクープランに触れると、リュリという巨大な存在をいろいろ考えさせられる。一方、クープランなのだけれど、リュリ以前へ回帰する中で、ポスト・バロックであるロココを強く感じられるところがおもしろい。バロックの大家、バッハ(1685-1750)の親世代に近いクープランから、バッハの先にある音楽が聴こえて来るという不思議!フランス的な感性に彩られると、当時の最新モードであるバロックとは距離を取りつつ、より新しい時代を呼び込んでしまう?バロック期、フランス音楽は、それだけ独自の道を極めていたということなのかもしれない。そして、ここで聴くルソン・ド・テネブルなのだけれど、これがまた、時代感を超越して、不思議な輝きを放つ!
イエスの受難と向き合う聖なる三日間の第1日目、朝課での旧約聖書からの哀歌を歌うルソン・ド・テネブル... イエスの受難を嘆く音楽(これがイタリアだったなら、きっとエモーショナル... )なのだけれど、「嘆き」はどこかへ飛んで行ってしまい、ただひたすらに美しいのがクープラン流。最小限のアンサンブルを伴い、ソプラノにより歌われる哀歌は、フランス的なメローさに貫かれ、何とも言えずたおやかで、ただただ麗しく、終始、楚々と流れてゆく... 一方で、第1のルソン・ド・テネブル(track.1-7)の始まり、「預言者エレミアの哀歌、ここに始まる」というフレーズの色彩感!鮮やかにして、ちょっとスペイシーな広がりを感じさせる不思議なトーンは、まるでニューエイジ!どこか、ペロタンチコーニアといった中世の音楽をもイメージさせるところがあって、眩惑させられる。「バロック」や「ロココ」といった型枠では語り切れない、無重力感とでも言おうか、この不思議さがたまらない。で、そうした不思議さに包まれていると、今にも魂が彷徨い出しそう... 目を閉じれば、あの世とこの世の境の壮麗な風景が見えて来そう... 二重唱となる第3のルソン・ド・テネブル(track.13-18)では、ソプラノによる2つのやわらかな旋律が美しく綾なし、これが得も言えずヘイブンリー!何なのだろう、この美しさ!それは、「フランス」からも切り離され、徹底して浮世離れした音楽とも言える?1714年に出版されたというクープランのルソン・ド・テネブル、そこには、時代感覚を大いに狂わされるサウンドが漂い、この世のものとは思えない光に満ちている。
で、その光をもたらすダヌマン、プティボンの伸びやかな歌声!控え目ながら、しっかりと音を紡ぎ出すクリスティ+レザール・フロリサンの演奏!いや、彼らあってこそ、間違いなく光は増している!何と言っても伸びやかな歌声がすばらしい2人のソプラノ... ふわっとやわらかなダヌマンが第1(track.1-7)を、密度を感じさせるプティボンが第2(track.8-12)を歌いつないで、2人で第3(track.13-18)を歌うという絶妙な展開のルソン・ド・テネブル。その後には、4つのヴァーセット(track.19-22)が取り上げられるのだけれど、その1曲目、ア・カペラにより歌われる「私の情熱は私を滅ぼすほどです」(track.19)では、2人の歌声が露わとなり、独特なアルカイックさに包まれて印象的... そんな彼女たちの歌う姿は、とてもニュートラルで、極めて宗教的な作品でありながらも、クリスティに導かれて、そうした背景から解き放たれるような感覚があり、刺激的。レザール・フロリサンが紡ぎ出す音楽は、宗教的な重さより、クープランの独特な音楽性を巧みに際立たせ、現代にも通じるモーディッシュさを響かせる。そうして、ラヴェルら後世の作曲家たちからもリスペクトされたクープランの、時代感を超越するおもしろさを、鮮やかに浮かび上がらせ、魅了して来る。

COUPERIN: LEÇONS DE TÉNÈBRES/CHRISTIE

クープラン : 第1のルソン・ド・テネブル *
クープラン : 第2のルソン・ド・テネブル *
クープラン : 第3のルソン・ド・テネブル **
クープラン : 4つのヴァーセット **

ソフィー・ダヌマン(ソプラノ) *
パトリシア・プティボン(ソプラノ) *
ウィリアム・クリスティ/レザール・フロリサン

ERATO/0630-17067-2




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