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夜と、大地の歌。 [2009]

どうも、ハイドンから目が離せない... で、メモリアル・バカ?なんても、自身を振り返ったり。とはいえ、ここぞとばかりに、興味深いタイトルを用意して来る各レーベル。あれもこれもと、多少、振り回され気味な日々を送る2009年。なのだが、ハイドンの一方で、近頃、気になるのは、マーラーの存在。
気になるマエストロたちが、着々とツィクルスを推し進め... いや、そればかりでなく、あちらこちらで、次から次と、気になるマーラーがリリースされて... 2010年、マーラー(1860-1911)、生誕150年のメモリアルは、すでに動き出しているのだなと。そして、早くも、来年のメモリアルに取り憑かれ始めているのやも...
ということで、マーラーの交響曲を2つ。賛否両論のツィクルスも折り返しを過ぎた、ジンマン+チューリヒ・トンーハレ管による7番(RCA RED SEAL/88697506502)と、SONY BMG(今はBMGが取れてしまっている?)に移り、再び息を吹き返した観のあるケント・ナガノと、彼が率いるモントリオール響による「大地の歌」(SONY CLASSICAL/88697508212)を聴く。


夜に... 想う。

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「大地の歌」、未完の10番を含め、11あるマーラーの交響曲だが、どうも、7番の交響曲というのは、取っ付きにくい印象があって... そうした中での、ジンマン+チューリヒ・トーンハレ管による7番。
彼らのツィクルスというのは、ベートーヴェンに始まって、いつもラディカルで、ステレオタイプに馴染んでしまっていると、足を掬われるようなところがあって、賛否両論を巻き起こすわけだけれど。だからこそ、楽しみにしていた7番であって。ジンマン特有の、肩の力をしっかり抜いてから、再構築していくその音楽は、取っ付きにくさを取り払っていて... けれど、捉え所のないあたりは強調される?
力みの無い、ナチュラルさを指向するジンマンだが、力みの無い音楽というのは、まとまりのなさを孕む7番においては、全体が緩み、ばらけてしまいそうな危うさが漂うよう。しかし、おもしろいのは、ばらけてしまいそうなあたりが、まとまりのないあたりを整理するようでもあって。整理して、新たな有機的なつながりを、作品全体に創り出すような、不思議な感覚がある。パーツ、パーツを、フレキシブルに鍛え直して、7番の交響曲のあらゆる場所で蠢かせ、単に透明感で押し切るのではない、夜の不可思議な表情を、じわじわと広げて。一転、明るくなる終楽章(track.5)ですら、そんな夜の佇まいに取り込まれていて、魅惑的。全5楽章、それは、捉え所のない... という統一感?とでも言うのか... 下手に山場を作らない、ドラマを音楽に持ち込まないことで生まれる、闇に揺蕩う感覚が、心地良く。次から次へと現れる、様々な要素... 例えば、2楽章(track.2)のカウベルや、4楽章(track.4)のマンドリンやギター、そのものを強調するのではなくて、それらが並ぶことでファンタジーを紡ぎ出し、「夜の歌」の気分は、より具体的に表現されているのかもしれない。
手綱を引いて、力で難曲を乗りこなすのではなく、夜に任せて、その印象が、どこまで広がるかを見つめるような、ジンマンの立ち位置が興味深く。その21世紀的スタンスは、7番に至って、より魅力を感じさせるようでもあり... また、そうしたジンマンのスタンスに、すっかり馴染んでの、きっちりとした仕事ぶりを聴かせるチューリヒ・トーンハレ管のサウンドも、味わいすらあって、ジンマン・ワールドに色(艶)を添える。
さて、ジンマン+チューリヒ・トーンハレ管のマーラー・ツィクルス。スタート・ダッシュが見事だった分、そろそろ息切れするか?なんて、過ってもいたのだけれど、7番を聴く分に、峠は越したか?俄然、8番が楽しみになる。で、「千人の交響曲」。その規模といい、大した曲者だけに、どう料理されるのやら。待ち遠しい

MAHLER: SYMPHONIE NR.7
TONHALLE ORCHESTER ZÜRICH ・ ZINMAN
ALINA IBRAGIMOVA violin ・ CÉDRIC TIBERGHIEN piano


マーラー : 交響曲 第7番 ホ短調 「夜の歌」

デイヴィッド・ジンマン/チューリヒ・トーンハレ管弦楽団

RCA RED SEAL/88697506502




大地を、離れ...

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モントリオール響との、極めて意欲的な"The General"(RCA RED SEAL/88697 30602 2)。バイエル州立管との、クリアで、極めてナチュラルなブルックナーの「ロマンティック」(SONY CLASSICAL/88697368812)。SONY BMGに移ってからのケント・ナガノの仕事ぶりは、目を見張るものがある。そして、モントリオール響との2枚目のアルバムに選ばれたのが、マーラーの「大地の歌」。
やはり、このマエストロでなくては、描けない世界がある... とにかく、モードに左右されない、究極のオリジナリティを獲得するに至った希有な存在だ。それも、個性を強く打ち出すわけではない、個性すら洗い流してしまう、恐るべき洗練から繰り出す音楽と言うのは、他のどのマエストロとも違う、超越した輝きを持っている。そうしたあたりからの「大地の歌」は、また不思議なテイストで... 良くも悪くも存在する、マーラーによるシノワズリーが、いつもとまったく違う濃度で響く。
クリムトの絵画が象徴する、ウィーン世紀末に漂うエキゾティシズムが、マーラーの音楽にも滲み出したのが「大地の歌」。なのだろうが、ケントによる「大地の歌」は、そうしたエキゾティシズムが洗われて、取って付けたようなシノワズリーは薄まり、西洋的な彩色が抜け落ちた後に、水墨画のような、淡々としつつの、繊細な表情が現われる。また、交代する、軽やかなテノールのパートと、抒情的なアルト(このアルバムではバリトン... )のパートは、コントラストを弱め、作品全体からは、フラットな印象を受け... そのあたりに、まさに東アジア的な感性を見出すのだが... アメリカ人とはいえ、やはり血は争えないなと、ケントのルーツを想う。そして、アルトではなく、バリトンを採用(ケントらしい... )しての、男声2人(なくはないが、やはり珍しいパターン... )による歌が、独特の雰囲気を醸し出す。フォークト(テノール)の、どこか少年のような無垢なトーンに、ゲルハーエル(バリトン)も、低音より高音で聴かせて。2人の声は、"大地"というより"天上"を思わせ、対峙するのではなく、繋がっていくようで、綾なすようで、危うさすら漂って、浮世離れしてみせる。
「大地の歌」には、たまらなく厭世感が漂うわけだが、それは、極めてマーラー的な、ウィーン世紀末の感覚で... しかし、ケントの場合、「メメント・モリ」、云々、ロマンティックな耽美に走らず、歌われる詩の、オリジナルたる李白や孟浩然の、中国の古典の世界に立ち返るようで。マーラーが用いた詩の、翻訳に次ぐ翻訳で失われてしまった、オリジナルが持っていたであろう瑞々しさ、繊細さ、淡さ... 東アジア的な感性というのか、作曲者ですら知り得なかっただろう世界に、辿り着いてしまったようで。ケントの仕事ぶりは、何やら仙人にすら思えてくる。モントリオール響も、その独特の境地を、巧みに音楽にしていて、ケント・ナガノ体制の好調ぶりを、アピールしてくる。

MAHLER DAS LIED VON DER ERDE VOGT GERHAHER NAGANO

マーラー : 交響曲 「大地の歌」

ケント・ナガノ/モントリオール交響楽団
クラウス・フローリアン・フォークト(テノール)
クリスティアン・ゲルハーエル(バリトン)

SONY CLASSICAL/88697508212




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