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ブルックナーはロマン主義を越える。 [2005]

えーっと、少しばかりクラシックから離れます。
ということで、『タマネギのひみつ。』、黒柳徹子×糸井重里という組合せによる対談本を読む(ほぼ日にての対談を書籍化とのこと... )。で、一気に読んだ!でもって、凄かった。やっぱり、あの人はタダモノではない... 黒柳師(ヨガ・マスターなので... フっ、笑)。そして、わぁーっと繰り広げられる、そのおしゃべりから学ぶこと、多々あり。で、何を、一番、学んだかというと、黒柳師の在り様、そのもの... というのか... 自身を取り巻く世界をどう見つめるべきか、ということ(そのことを具体的に語ったりはしません... )。それは、「わぁ」という驚きに埋め尽くされていて。黒柳師につまらないという状況は存在しないかのように、全てを「わぁ」で捉えることができる驚き... とはいえ、自身を、周囲を、振り返った時、「わぁ」はそうあるものではない。というより、今の時代、何でも検索可能で、「わぁ」なんて言ってる間もなく、みんな訳知り顔で、しらーっとしてしまっている。もはや、「わぁ」のフロンティアは存在しないかのように... けど、「わぁ」は、術であって、それは、驚くための想像力がどれほどあるかのバロメーターなんだなと。黒柳師の、そのタマネギに詰まっている想像力の宇宙というのは、計り知れないのだなと。いや、今こそ、「わぁ」を取り戻さねば!てか、師に及ばずとも、目指して鍛えねば!当blogは、クラシックに対して、とにかく「わぁ」と在り続けたい。クラシックという銀河を、「わぁ」で埋め尽くしたい!
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ということで、クラシックに戻る。6月はロマン主義下り。ウェーバーの遺作と、リストの晩年の"間"が埋まったので、先へ進むことに... そこで、ブルックナー。ロマン主義も佳境です。2005年にリリースされた、フィリップ・ヘレヴェッヘ率いる、ピリオド・オーケストラ、シャンゼリゼ管弦楽団の、ブルックナーの7番の交響曲(harmonia mundi FRANCE/HMC 901857)を聴き直す。

わぁ、ブルックナーって、やっぱり普通じゃない!
と、早速、「わぁ」を使ってみるのだけれど、かなり取って付けたよう... というあたりはさて置き、フンメルに始まり、ここまで、丁寧にドイツ―オーストリアのロマン主義を見つめ直してから触れるブルックナーというのは、その独特な音楽世界がより際立って感じられて、「わぁ」と、今さらながらに驚かされる。もちろん、その独特さは、これまでも感じて来たし、それに慣れ切るまでは、苦手ですらあったのだけれど、改めて向き合ってみるブルックナーの交響曲は、異様にすら思えて来る。そんな音楽、どうカテゴライズすべきなのだろう?
もちろん、ロマン主義の作曲家として紹介されているし、ワーグナーにインスパイアされ、ただならずワーグナーをリスペクトしていたことはわかっている。が、その音楽のイメージは、ロマン主義から逸脱しているように感じられてしかたがない。パーツ、パーツは、とてもロマンティックで、ベートーヴェン的マッシヴなヒロイックさ、ワーグナー的な壮大なスケール感、シューベルトを思わせる透明感、シューマンのような仄暗さと、その細部にはロマン主義の輝きが様々に籠められているのだが。一方で、それらをブロックのようにして積み上げて、ルネサンス期のポリフォニーの大伽藍を建ち上げるような感覚があって。そこには、ロマン主義ならではの流麗さ、ドラマティックなうねりは、ほとんど無いのかもしれない。いや、「ロマン主義」以前に、音楽としての感覚に欠ける帰来すらある... となると、何だろう?音によるオブジェクト?ブルックナーの交響曲は、聴くというより、目には見えない建築を体験するような、不思議さがある。この不思議さは、なかなか他に探せない... で、久々に、ヘレヴェッヘ+シャンゼリゼ管による7番の交響曲を引っ張り出して来て、その不思議に触れてみれば、わぁ!?となる。
ピリオド・オーケストラなればこそのタイトな響きが、よりブルックナーの、音によるオブジェクト?感を浮かび上がらせて。また、ピリオド楽器ならではの未成熟さが生む、癖のあるサウンドが、そのオブジェクトに質感を与えて、目に見えないはずの建築が、目に見えて来るような。ますます不思議。モダンのオーケストラの、マックスに鳴り切った輝かしさとは一味違う、いい具合に枯れた、渋めのサウンドだからこそ、ブルックナーがよりよく見えて来るおもしろさ。リリース時には、とうとうブルックナーもピリオドの範疇に?!という衝撃に目が行きがちだったけれど、今となっては、そうしたセンセーショナルも薄れ、落ち着いてその演奏と向き合うことができる。で、この演奏が、ブルックナーという存在にダイレクトに迫っていたことに感じ入り、深く、納得させられる。
ブルックナーはロマン主義を越える。のかもしれない... 同時代のどの作曲家よりも無垢な響きを生み出していることに息を呑み。その無垢な響きを、無愛想にまとめてしまうことに面喰い。作曲家として、けして器用とは言えない。けれど、器用さでは追求し得ない音楽の本質を突き詰めて、ある種の結晶としての交響曲を展開するのか。その、はったりとは無縁の音楽。それを曝け出すヘレヴェッヘ。下手に、音楽として取り繕う... なんて、安易な態度を取らないことが、ブルックナーの等身大のサウンドを克明に刻む。また、その等身大を、見事に形作るシャンゼリゼ管!少し冷めた視点から、訥々と鳴らすことで、ヘレヴェッヘが放つブルックナーのリアルを、無理なく彫り起こす。美しさに、無骨さをぶつけて、そのありのままにこそ、時代やイズムを超越するブルックナー像を示して、わぁ!?となる。驚くべき存在、ブルックナー...

Bruckner ・ Symphonie n⁰7 ・ Philippe Herreweghe

ブルックナー : 交響曲 第7番 ホ長調

フィリップ・ヘレヴェッヘ/シャンゼリゼ管弦楽団

harmonia mundi FRANCE/HMC 901857

6月、ロマン主義下り。
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