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ベルリオーズ、メガロマニアックの先の壮麗... レクイエム。 [2018]

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大嘗宮、見学、行ってきました!すんごい人で、えげつなく押し合いへしあいの熾烈な撮影大会(嗚呼、ワタクシもそのひとりになってしまった... 反省... )の必死さに、ありがたさもどこか吹っ飛んでしまうようではありましたが、大嘗宮、そのものは、実に、実に興味深かった!それは、神社という建築的なるものより、現代美術のインスレーションを思わせる、彫刻に近い印象があったかもしれない。木が切り出されてそのまま部材に用いられていたりと、極力、意匠が廃された建物は、リズミカルに立つ柱(ちょっぴり、隈研吾ちっく!)が印象的で、その姿を見つめていると、どこか葦原を思わせるようで、もしかして、葦原中国(高天原と黄泉の国の間にあるという、我々の生きる次元とは異なる次元にあるという... )のイメージ?つまり、神と帝が出会われる場は、この世ではないのか... そして、それはまた葦がそよぐ原初の日本の姿なのかも... なんて、想像を膨らませてみたら、感慨。日本における宗教観の根源的なもの、素朴な自然への帰属意識のようなものを目の当たりにするようで、そうしたところから遠く、遠く離れてしまった21世紀を生きる現代人として、いろいろ考えさせられました。
さて、音楽です。大嘗宮とは対極にあるキリスト教の教会に轟くレクイエム!ルドヴィク・モルロー率いたシアトル交響楽団、同合唱団、ケネス・ターヴァー(テノール)らによる、ベルリオーズのレクイエム(SEATTLE SYMPHONY MEDIA/SSM 1020)を聴く。

大嘗宮を目の当たりにしてから聴く、ベルリオーズの巨大なレクイエムは、何だか凄い。どっちがどうのというではなく、日本と西洋の基層的価値観の違いを強烈に思い知らされて、眩暈すら覚える。石を積み上げ、大空間を生み出す教会に、ブラスによる4つのバンダと、8対のティンパニーが居並ぶ大編成のオーケストラ、そして大合唱によって、音楽を充たして行く... ベルリオーズのレクイエムは、そのメガロマニアックとも言える巨大さ、時としてヤリ過ぎなあたりが、教会音楽として異形にも感じられるわけだけれど、先日のローマ教皇による東京ドームでの5万人のミサを思い起こせば、巨大であることは、キリスト教において、まったく以って正しい在り方なのかもしれない。考えてみれば、世界の全てを唯一の神が創造するという壮大なスケール感を持ったキリスト教... その宗教観を響かせるとなると、もはやどんな巨大さでさえも足りないのかもしれない。そういう中で、でき得る限り、巨大な音楽を目指そうとしたのがベルリオーズのレクイエム... という風に捉えると、異形などとは安易に言えなくなる。というより、それは、最も神に忠実であろうとした典礼音楽と言えるのかもしれない。ベルリオーズは、特別、信仰に篤かったわけではない。このレクイエムも、ある種、虚栄心の賜物とすら言えるところがある。1837年、ローマ賞受賞(1830)によるローマ留学から帰国(1832)して未だ5年、34歳となるベルリオーズは、七月王政、フランス政府から、七月革命(1830)の犠牲者を悼むレクイエムの委嘱を受ける。大抜擢である。当然、気合は入る。やったらな!という勢いが、ベルリオーズらしい、それまでのレクイエムを度外視する音楽を生み出したか... 度外視して、かえって、キリスト教本来の壮大なスケール感を響かせることができたように思う。
そんな巨大なレクイエムを、フランスのマエストロ、モルローの指揮で聴くのだけれど、いやー、巨大さに埋没しない、その確かなる音楽... 大きな流れを生み出して、魅了される!巨大であるがゆえに、まず全体をコントロールすることが最重要課題であり... また、このレクイエムの醍醐味、ベルリオーズのギミックとも言える演出、例えば、ディエス・イレ(track.2)の奇しきラッパ=トゥバ・ミルム、天上から降り注ぐパンダのブラス、地の底から轟くような物々しいティンパニーなどを強調して、聴く者をあっと言わせる。というのが、指揮者としての正攻法。なのだろう。が、モルローは、そうした聴かせ所にそこまで注力しない(けど、十分に迫力満点!)。それよりも、長丁場、ディエス・イレのようなエモーショナルなところも、そうでない、ルネサンス以来の古様式(ローマ留学の賜物なのだろう... )を思わせるアルカイックなコーラスも丁寧に押さえ、大作の、その全てに対して、真っ直ぐに向き合い、全体でひとつの大きな流れを創り出す。その悠然なる音楽は、ベルリオーズのギミックをも押し流し、信仰に篤くはないベルリオーズも逃れることのできない、西洋社会の基層を成すキリスト教の、その壮大なスケール感を浮かび上がらせる。だから、聴き終えての感動がただならない。静かに、アーメンで終わることこそに、感動が押し寄せて来る。もはや、パンダのブラスが... 次々に連打されるティンパニーが... とか、このレクイエムを特徴付ける部分に一喜一憂することを忘れさせてしまうほど... いや、異形のレクイエムを、異形として身構えることなく、ただその巨大さに身を任せることを促す演奏に、新鮮さを覚える。そして、圧倒される。
という、モルローに見事に応えるシアトル響が、またすばらしい!モルロー以前も、シュウォーツとのコンビで、アメリカならではの明快さ、西海岸らしいソフィストケイトされたサウンド、さらに、西海岸でも北に位置するからだろうか、冴えた感覚、南とは違い雨の多い地域だからだろうか、しっとりとした表情が相俟って、派手さこそ無いものの、多くのビッグ・ネーム犇めくアメリカにあって、シアトル響らしさは、いつも際立っていた。そこに、フランスのマエストロ、モルローと触れ合って、音楽をより大きく捉えるモルローの姿勢が、彼らの演奏をまた一段引き上げたように感じる。ベルリオーズのレクイエムで聴かせる悠然さは、まさにシアトルがフランスと出会ってのケミストリー... 魅了されずにいられない(さて、シアトル響は、今シーズンから新たにデンマークのマエストロ、ダウスゴーを迎える!これまで積み上げて来たものと、北欧との相性、絶対に良いはず!さらにもう一段の引き上げが期待できそう... )。そして、このレクイエムの主役とも言えるコーラス!シアトル交響楽団合唱団とシアトル・プロ・ムジカによる巨大なコーラスは、パワフルにして瑞々しく... ドラマティックさも、アルカイックさも、見事に歌い切り、圧巻。さらに、サンクトゥス(track.9)でソロを歌うターヴァー(テノール)の伸びやかな歌声も美しく... レクイエムの後で歌われる「オフィーリアの死」(track.10)では、ますます表情豊かで、圧巻!なのだけれど、レクイエムの後で、このおまけ、蛇足?せっかくのレクイエムの感動がぁぁぁ... というほどの充実感があったレクイエム。巨大な流れに身を浸し浄化されるカタルシス、何とも言えない。

BERLIOZ REQUIEM SEATTLE SYMPHONY MORLOT

ベルリオーズ : レクイエム Op.5 *
ベルリオーズ : オフィーリアの死

ケネス・ターヴァー(テノール)
シアトル交響楽団合唱団
シアトル・プロ・ムジカ(コーラス) *
ルドヴィク・モルロー/シアトル交響楽団

SEATTLE SYMPHONY MEDIA/SSM 1020




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コメント 1

サンフランシスコ人

「シアトル響らしさは、いつも際立っていたけれど、」

新しいコンサートホールの音響効果のお陰だと思います....
by サンフランシスコ人 (2019-12-03 07:00) 

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