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ベートーヴェン、第九。 [2019]

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ステイ・ホームなものだから、いつからゴールデン・ウィークで、いつまでゴールデン・ウィークなのか、よくわからなくなって来ている、今日この頃... 何だか、時間が引き伸ばされて行くような、奇妙な感覚を覚えるのです。という中で、第九を聴く。一気に、年末へ!って、時間を壊しに掛かっている?いやいやいや、実は、第九が初演されたのは、1824年の5月7日。そう、196年前の今日なのです!あの歓喜の歌は、年の瀬ではなくて、勢いを増す春の陽気の中で産声を上げたわけです。そういう史実を前にすると、お馴染みのメロディーもまた少し違って聴こえて来るような気がします。そして、今こそ、歓喜の歌、なのかもしれない... おお友よ、このような音ではない!我々はもっと心地良い、もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか!不安で視野を狭めることなく、不満で日々を無為に送ることなく、しっかりと明日を見据えて、何より、コロナ禍の一日も早い終息を願って、今、肺炎に苦しんでいる人々の快癒を願って、逝ってしまった人々の冥福を祈って、今こその、第九。
鈴木雅明率いるバッハ・コレギウム・ジャパン、アン・ヘレン・モーエン(ソプラノ)、マリアンネ・ベアーテ・キーラント(アルト)、アラン・クレイトン(テノール)、ニール・ディヴィス(バス)で、ベートーヴェンの交響曲、第9番、「合唱付き」(BIS/BIS-2451)を聴く。

8番の交響曲(1812)と、9番、第九(1824)が完成するまでの間は、それまでになく開いている。そこには、ベートーヴェンの作曲家人生における"傑作の森"を抜けた後のスランプが挿まれる... 何があったのだろう?もちろん、社会的、個人的、様々な要件が絡み合ってのスランプだったのだろうが、フランス革命戦争(1792-1802)、そして、ナポレオン戦争(1803-15)と、長く続いた戦争の終わりも大きかったように思う。そう、第九を除き、ベートーヴェンの交響曲のほとんどは、戦時下に生み出されている。ある意味、ベートーヴェンの新しい時代を告げる交響曲の数々は、時代の激動を目の当たりにし、戦時下の緊張感を養分に生み出された音楽なのかもしれない。そして、1815年、その戦争が完全に終わる(ウィーン会議により、ヨーロッパをフランス革命以前の状態に戻す、ウィーン体制が確立する... )。平和が訪れれば、心置きなく創作に打ち込める!はずが、平和は保守反動を引き連れて戻って来る。常に自由を希求したベートーヴェンにとって、それはとても息苦しいものだったろう... またそこに、革命疲れ、戦争疲れとでも言おうか、保守反動を受け入れる風潮もあり、芸術全般においては、アンシャン・レジームを懐古しながらの、慎ましやかなにして家庭的な表現が好まれ、小市民的なビーダーマイヤー様式が広まった。そして、音楽シーンにおいては、ナポレオンが去って、ロッシーニがやって来た(by スタンダール)。人々は、ベートーヴェンの交響曲よりも、18世紀の音楽を象徴するナポリ楽派の継承者(ロッシーニは、1815年、かつてのナポリ楽派の総本山とも言うべき、ナポリ、サン・カルロ劇場の音楽監督に就任している... )、ロッシーニのオペラに熱狂。理想は遠く、楽聖もスランプに陥るわけだ... が、やがて、乗り越える、ベートーヴェン。乗り越えて、突き抜けてみせる!それが、第九。「合唱付き」、歌ってしまうという、交響曲=絶対音楽の掟破りを犯すわけだ。いや、保守反動の時代の楽聖の気骨に脱帽... 一方で、必ずしも時代と喧嘩しようというではない、全ての人々は兄弟となる、と、歌う、第九であって... 時代に抗いつつ、融和を訴えるという懐の大きさが、凄い。どんな人生経験を経て、どんな時代背景があって、第九が生み出されたかを考えると、その音楽、圧倒的だなと... 道理で、一年を締め括るのにぴったりなわけだわ。って、いやいや、5月生まれだから、第九...
そんな、5月に聴く、第九。鈴木雅明+バッハ・コレギウム・ジャパン(以後、BCJ... )で聴いてみようと思うのだけれど、その前に、BCJが第九?!となる。BCJは、ただのピリオド・アンサンブルではない。バッハの教会カンタータ全集を完成させるという偉業を成し遂げたバッハのアンサンブルである。ひょいと何でもこなしてしまうピリオド・アンサンブルとはワケが違う、一本筋の通ったバッハの専門家集団(もちろん、そのレパートリー、バッハのみにこだわっているわけではないけれど... )。だから、正直、BCJの第九をイメージできなかった。が、"音楽の父"と徹底して向き合って来ての、楽聖の突き抜けた交響曲には、何か根源的な音楽の在り様が示されるようで、目を見張った。そもそも、BCJのバッハがニュートラルだった... バッハと縁もゆかりも無い極東の島国からバッハの音楽を捉えることで響き出す、素のバッハの活き活きとした表情に魅了されて来たわけだけれど、あの感覚が、そのまま第九にも息衝く。何物でもない、ただそこにある音符を拾って、無邪気に大気に響かせるニュートラルさ... だから、一音一音が、それぞれに色彩を放って、弾み出す。あの重々しく、霧の中から音楽から立ち現れるような1楽章から、何か泉が湧き出すような動きが生まれ、これまでになく様々な音が耳に飛び込んで来て、聴き知った音楽が、とても若々しく感じられるから、おもしろい。続く、2楽章、スケルツォ(track.2)では、さらに弾んで、7番の勇壮(戦場の?)さを思い出させ... かと思うと、「田園」の記憶が瑞々しく蘇って... いや、5月の野を駆け回るよう。さらに、3楽章、アダージョ・モルト・エ・カンタービレ(track.3)。ベートーヴェンが書いた中でも、一二を争う美しい音楽は、アンシャン・レジームの愉悦に浸るようで、夢見るよう... という音楽を、思いの外、小気味良く繰り出す、BCJ。でもって、小気味良いけれど、カンタービレであることは、けして、失わない。だから、ベートーヴェンならではの変奏の妙は匂い立ち、眩惑されるよう。で、眩惑されれば、まるで花畑のど真ん中で昼寝をしているかのような錯覚を覚えてしまう。頭の上をプカプカと雲が流れて行き、鳥たちが飛び交い、蝶が舞い、なんて牧歌的なのだろう... そういうサウンドに包まれていると、やっぱ、第九は、5月だな、なんて...
そこからの、終楽章(track.4-11)。お約束の歓喜の歌!いや、歌い出せば、ますますその魅力が輝き出すBCJ!バッハのカンタータで聴かせた、天然感に溢れる、ある種、無垢なるコーラスのハーモニーは、第九にも活きて、底抜けにポジティヴ!いや、いつも通り、極めて丁寧なBCJの合唱部隊... その歌声は、力みが抜けて、いい意味で、第九らしさ(年末感?)を軽やかに超越してみせる。で、それくらいだからこそ、第九の突き抜けた世界観を表現し切っているようにも思えて... 何と言うか、隅々まで明るく、色彩に充ち、何より軽やかで、その軽やかさが豊かな表情を引き出して、どこか、ハイドンのオラトリオ(『天地創造』よりは、『四季』の方... )を聴くような感覚がある。豊かな表情が、交響曲であることを忘れさせるドラマティシズムを生み、ワクワクするような楽しさが広がって... そこに、4人のソリストのキャラが立ち、この第九のオラトリオっぽさをより濃くさせる!歌の第一声、バスが歌う、おお、フロイデ(track.6)!デイヴィスの芝居掛かった歌いっぷりは、まるでレチタティーヴォ・アッコンパニャート(BCJのオーケストラ部隊が、またキレのある劇的な演奏を繰り出す!)のよう。グイっと聴き手の耳を捉え... てからの、モーエンのカラフルなソプラノに、味のあるキーラントのアルトが効いた四重唱が絶妙!さらに、テノールが歌う行進曲(track.5)では、クレイトンの陽気な歌声が、楽しげなシーンを描き... 飽きさせない!何だろう、立派なことを語ろうとしない、彼らの第九は、シンプルに喜びに満ちている!そのあたりが、まさに春なのだよね。そういう喜びを第九にもたらしたマエストロ、雅明、感服です。例えば、歓喜の歌のメインの場面(track.8)、ふわーっと、花吹雪が吹き抜けて行くような、そんな花々しさ、圧倒的な光景を見せられたら、もう何も言えねェ。そうか、第九は春の交響曲だったか(涙目)。そうか...

Beethoven ・ Symphony No. 9 ・ Bach Collegium Japan/Masaaki Suzuki

ベートーヴェン : 交響曲 第9番 ニ短調 Op.15 「合唱付き」

アン・ヘレン・モーエン(ソプラノ)
マリアンネ・ベアーテ・キーラント(アルト)
アラン・クレイトン(テノール)
ニール・ディヴィス(バス)
鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン

BIS/BIS-2451




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