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バルバラ・ストロッツィ、生誕400年、シンガー・ソングライター。 [before 2005]

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クラシックの世界は、何だかんだで男性中心の世界... いや、音楽史という観点から見つめれば、もはや男性のみで形作られていると言っても過言ではない。それぞれの時代を彩ったプリマドンナや、ヴィルトゥオーザたちがいたことを忘れるわけには行かないものの、彼女たちの活躍は、男性が生み出した音楽をベースとし、男性のみの世界にアクセントを加える花飾りであったことは否めない。それでも、音楽史を丁寧に見つめれば、難しい状況の中に在っても、自ら道を切り拓き、男性と肩を並べる音楽を生み出した女性作曲家たちが少なからずいた。というあたりを、興味深く紐解いてくれる小林緑編著、『女性作曲家列伝』を、ちょびちょび読んでおります。取り上げられるのは、シューマンの妻、クララに、メンデルズソーンの姉、ファニー、マーラー夫人、アルマ、フランス6人組の紅一点、タイユフェールなど、ヨーロッパの作曲家、15人と、著者との対談で登場の藤家渓子さんも含め、日本の作曲家、7人... 音楽史をざっと振り返って、22人とは... もちろん、1冊で取り上げるには限度があるわけで、22人が全てではない(ちなみに、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンや、中世の女性吟遊詩人、トロバイリッツは含まれていない... )。それでも、22人という数を目の当たりにすると、愕然とさせられる。一方で、取り上げられる、ひとりひとりのストーリーは、惹き込まれる。男性中心なればこそ、そこに如何にして割って入って行くか、それぞれに、それぞれの戦いがあって、またその戦いが、彼女たちの音楽性を鍛えたところもあり、おもしろい。なればこそ、女性作曲家の存在が、あと少し注目されたならと思う。ストーリーも含め、魅力的な彼女たちの音楽!
ということで、『女性作曲家列伝』の最初を飾る、前期バロック、ヴェネツィアで活躍した女性作曲家、今年、生誕400年のメモリアルを迎えたバルバラ・ストロツィに注目!ファビオ・ボニッツォーニ率いるラ・リゾナンサの演奏、エマヌエラ・ガッリ(ソプラノ)の歌で、1664年に出版されたバルバラ・ストロッツィのアリアとカンタータ集(GLOSSA/GCD 921503)を聴く。

バルバラ・ストロッツィ(1619-77)。
名門、ストロッツィ家(元々はフィレンツェの銀行家だったが、ライヴァル、メディチ家に敗れ、ヴェネツィアへ移っていた... )の一員で、ヴェネツィアで活躍した著名な詩人、ジュリオ・ストロッツィ(1583-1652)の娘として生まれたバルバラ。当初は、非嫡出子として扱われ、後に養女として迎えられている。というのも、ヴェネツィアの貴族階級は、財産の分散を防ぐため、基本的に分家が認められることはなく、本家を継ぐ者以外は結婚しないのが不文律だった。そして、バルバラの父、ジュリオも、本家を継ぐ立場にはなく、両親(母は、父の邸宅を切り盛りする女性だった... )は結婚することなく、バルバラをもうけている(実は、父、ジュリオも、同じように誕生をしている... )。妙な話しだが、上流階級ほど、婚外子が多かったヴェネツィア... 中には、孤児として孤児院に預けられるこどももおり、前回、注目したオスペダーレ=慈善院が発展した背景も、そうしたところにあるのかも(だから、オスペダーレ育ちでも、見染められ、名家に嫁いだ女性もいたらしい... )。さて、バルバラだが、オスペダーレに預けられるようなことはなく、早くから父の邸宅で暮らし、最高の教育を受けて育つ。特に、音楽に関しては、ヴェネツィア楽派の新世代として頭角を現しつつあったカヴァッリ(1602-76)に師事。モンテヴェルディ(1567-1643)の言う第2作法が主流となって、そこからより音楽的に洗練された形が摸索されていた頃、バルバラも最新の音楽スタイルを体得して行った。が、バルバラが、ヴェネツィア楽壇で最初に存在感を示したのは、歌手としてだった。10代半ばで歌い始めると、その歌声は評判を呼び、バルバラ、18歳の時、父、ジュリオは、娘の歌を披露するためにアッカデミア・デリ・ウニゾニを組織(モンテヴェルディも参加!)、バルバラはアカデミーに集ったヴェネツィアの文化人たちから称賛を集めた。が、自慢の娘を手放しで称賛するジュリオの親馬鹿っぷりが徒となったか?バルバラの成功は、不興も買い、敵対者からは娼婦呼ばわりされたりも... そんなバルバラが、作曲家として初めて作品を出版するのが1644年、父の詩に作曲したマドリガーレ集、第1巻、Op.1。そこから、コンスタントに声楽のための作品集の出版を続け、バロックならではのエモーショナルさに、叙情性を加えた旋律美で聴き手を魅了することに。そんな彼女の最後の曲集となったのが、1664に出版された、ここで聴く、アリアとカンタータ集、Op.8。
マドリガーレ集、第1巻から20年、すでに、父、ジュリオは世を去り、自らの詩で書いたアリアとカンタータは、まさに集大成!より熟成された音楽がそこから響き出す。その1曲目、カンタータ「無限の苦痛に満ちた、私の残酷な運命」、語りながら歌う=レチタール・カンタンドの伝統に則った叙唱で、瑞々しく感情を捉えながら、絶妙にアリアへとつなげて、音楽をふわっと香らせる。その香りに軽く酔わされるも、またすぐに感情的な叙唱へと引き戻され、まるで心の揺れを表現するかのように、叙唱とアリアを行き来するバルバラのカンタータ。フォーマルなダ・カーポ・アリアが確立する前の、過渡的な形を示すバルバラの音楽は、過渡的だからこそ形に囚われない自由さがあって、より活き活きと表情を捉え、かえって惹き込まれるものがある。続く、2曲目、アリア「私の心は狂おしく」(track.2)では、アリアでありながら、感情もしっかりと籠めて、メロディーと即興性が絶妙なバランスを取り、このあたりにバルバラのスタイルというものを見出せる気がする。控え目な通奏低音を伴いながら、美しくやさしい旋律を歌うかと思うと、感情がそのまま音楽に表れ、ハっとさせられる。この先が読めないような感覚が、シンガー・ソングライターならではの自由さ、即興を思い起こさせ、何とも言えないフレッシュな聴き応えをもたらす。6曲目、カンタータ「私は、そう、歌いたい」(track.6)では、時折、語りまで用い、ますます自由で、気紛れで、歌いたいままを綴り、歌う、何物にも囚われない姿が、音楽に煌めきをもたらす。一方、3曲目、ヴァイオリンを伴うセレナータ「今、アポロの胸に抱かれて眠るテティスは」(track.3)では、短いながら、しっとりとしたヴァイオリンによる序奏が印象的で... 序奏に限らず、ヴァイオリンの演奏が作品にアクセントを加え、叙唱とアリアの枠組みをより際立たせるのが興味深い。そうしてよりフォーマルとなった姿は、後のカンタータを先取りするかのよう。
そんな、バルバラ・ストロッツィのアリアとカンタータを聴かせてくれるボニッツォーニ+ラ・リゾナンツァ、そして、ガッリ(ソプラノ)!まず、何と言っても、ガッリの歌声が、愛らしく、聴き入ってしまう。で、その愛らしさが、バルバラのうつろいやすい音楽を、常に軽やかに捉えて、細部までクリアに歌い上げるのが印象的。エモーショナルなフレーズも、音符を追うことに忠実で、全ての音がキラキラと輝き、メリスマも、コロラトゥーラも、徹底して美しい。そういう美しさから、ポジティヴにバルバラの女性らしさをすくい上げ、磨き上げ、愛らしさの中にも、至芸を感じられるのが、ガッリの凄いところ。そんなガッリを、また美しい音色で支えるボニッツォーニ+ラ・リゾナンツァの演奏がすばらしく、あくまで通奏低音、伴奏に徹しながらも、バルバラの音楽の美しさを絶妙に引き立てていて、歌ばかりでなく、聴き手を惹き込む。いや、バルバラの音楽は、漠然とエモーショナルなイメージがあったけれど、安易にエモーショナルに盛り上げて終わらせない、ボニッツォーニのアプローチに感心。バルバラが綴ったスコアの美しさこそを前面に押し出すそのアプローチは、バルバラの希有な音楽性をきちんと示し、改めて、作曲家、バルバラ・ストロッツィの確かな才能を響かせる。

Barbara Strozzi Arias & cantatas La Risonanza

バルバラ・ストロッツィ : カンタータ 「無限の苦痛に満ちた、私の残酷な運命」 〔アリアとカンタータ集 Op.8〕
バルバラ・ストロッツィ : アリア 「私の心は狂おしく」 〔アリアとカンタータ集 Op.8〕
バルバラ・ストロッツィ :
   ヴァイオリンを伴ったセレナータ 「今、アポロの胸に抱かれて眠るテティスは」 〔アリアとカンタータ集 Op.8〕
バルバラ・ストロッツィ : カンタータ 「オーラよ、今私は遥かなる偶像に話しかけることもできず」 〔アリアとカンタータ集 Op.8〕
バルバラ・ストロッツィ : アリア 「不思議な目よ、ああ何故だか教えておくれ」 〔アリアとカンタータ集 Op.8〕
バルバラ・ストロッツィ : カンタータ 「私は、そう、歌いたい」 〔アリアとカンタータ集 Op.8〕
バルバラ・ストロッツィ : カンタータ 「何をすればよいのか」 〔アリアとカンタータ集 Op.8〕
バルバラ・ストロッツィ : カンタータ 「天国、星、神たち」 〔アリアとカンタータ集 Op.8〕

エマヌエラ・ガッリ(ソプラノ)
ファビオ・ボニッツォーニ/ラ・リゾナンツァ

GLOSSA/GCD 921503



ところで、バルバラが、最後の曲集を出版したのは45歳の年... 作曲家としては、まだまだこれからだったようにも思うのだけれど、女性作曲家が、フリーとして活動して行くには、やはり限界があったか。ヴェネツィア芸術界で存在感を示していた父をすでに失っていたことも大きかったよう。もちろん、親の七光ばかりでなく、実際にすばらしい歌手であり、作曲家であったからこそ、バルバラの活躍はあったわけだけれど、男性ならば、どこかの宮廷や教会でポストを得て、手堅く音楽の道を歩めただろうに、女性には、なかなか難しかった。結局、バルバラは、音楽から離れ、貴族相手の高利貸しで、ひと財産を作り(銀行家一族、ストロッツィ家のDNAか?)、1677年、58歳の時、パドヴァで世を去った。ちなみに、ジャケットにある気の良さそうな髭のおじさんが、バルバラを世に送り出したパパ、ジュリオ・ストロッツィ...




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