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"Opening Doors"、ベートーヴェンの10番としてのブラームスの1番、 [2013]

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9月1日です。新シーズンの開幕です。ま、特にオフもなく、年がら年中、クラシックな、当blog的には、開幕もへったくれもないのが正直なところですが、ここから、また、リ-スタートというのも悪くはないなと... で、何で始める?開幕に相応しく、ザ、クラシック!みたいな音楽がいいなと... そこで、ブラームスの1番の交響曲を聴く。いやね、まったく以って個人的な意見ではありますが、ブラームスの1番こそ、クラシックのヘソではないかと前々から思っておりまして... というのも、やっぱり、クラシックのレパートリーの花形は19世紀の作品。クラシックを象徴するスタイルと言えば交響曲。で、楽聖、ベートーヴェンの交響曲の系譜を継承し、時として"ベートーヴェンの10番"なんて言われ方もするブラームスの1番は、古典主義をきちんと継承し、未来(も、今となってはクラシックの内だけれど... )へとつないだ結節点にして、「クラシック」の基点とも言える作品かなと... そんな基点へと、今一度、還って、令和元年の新シーズン、リ-スタートを切ってみたいと思います。
ということで、トマス・ダウスゴー率いるスウェーデン室内管弦楽団の、モダンとピリオドのハイブリットで、ロマン主義の時代を改めて見つめ直す意欲的なシリーズ、"Opening Doors"から、ブラームスの1番の交響曲(BIS/BIS-1756)を聴く。

ブラームス(1833-97)の代表作、1番の交響曲の出発点は、恩師、シューマンが自殺未遂を起こした1855年、ブラームス、22歳の時に書かれた、2台のピアノのためのソナタのスケッチに遡る。そして、交響曲として完成されるのは、1876年、ブラームス、43歳の時... 何と21年もの歳月を掛けて作曲されたわけだ。なればこその代表作... いや、1番にして代表作というのが、ちょっと他の作曲家には見当たらなくて、そのあたりが、この交響曲を希有なものとしている(普通、1番は、習作というか、準備体操でしょう?)。何より、"ベートーヴェンの10番"、なんて言われる充実度が半端無い。まさに、1番入魂!裏を返せば、21年もの間、思考錯誤を重ねた難産の作品であって... では、なぜ難産だったのか?ブラームスが生きた時代、交響曲はすでにオールド・ファッション。18世紀、古典主義の巨匠たちが完成させた絶対音楽の結晶、交響曲は、19世紀に入って、ロマン主義の台頭とともに、難しい立場に置かれる。というのも、より情緒的で、人間の感情に素直な芸術思潮、ロマン主義と、古典美の端正さを極めた絶対音楽=交響曲は、相性が悪かった。それでも、メンデルスゾーン(1809-47)や、シューマン(1810-56)らが、古典と現代(=ロマン主義)の問題に取り組み、何とか折り合いどころを見つけて、ロマン派の交響曲に道筋を付ける。が、その問題を、コロンブスの卵のように解決した、リスト(1811-86)!1850年代、交響曲という形に捉われず、シンフォニックにロマン主義を響かせる交響詩を誕生させる。そういう時代に、交響曲を諦めなかったのがブラームス... そして、ブルックナー(1824-96)。
19世紀後半の交響曲において、ウィーンで活動したこの2人の存在は、実に興味深い。その音楽性は対極(ワグネリアンのブルックナーvsアンチ・ワーグナーなブラームス... )にあり、好敵手とも言える対峙が見て取れるわけだが、実は、ロマン主義が深化して行く中、絶対音楽=交響曲に挑むという点では、同志であった?だから、丁寧に両者の交響曲を見つめれば、同じく古典への深い眼差しを見い出せて、感慨深い。実にロマンティックな表情を見せるもブルックナーの交響曲も、その表情の裏には、古典主義のロジックがしっかりと受け継がれ、絶対音楽=交響曲の構造ががっしりと存在している。構造から見つめれば、思いの外、古風だったりする。そう、ブラームス以上に古典的にすら感じられるその構造... 一方で、ブラームスは、自ら新古典派を名乗り、ロマン主義に対抗するような姿勢も見せるも、古臭く思われることに抵抗感もあったか?どっちつかずの態度も見せる。解り易くロマンティックに染まりもすれば、ハイドンの主題による変奏曲のように古典をリヴァイヴァルし、妙に古雅な作品を書いてみたりもする。そんなブラームスだからこそ、最初の交響曲が21年も掛かってしまったのだろう。しかし、改めて1番を聴くと、その21年の熟考は間違いでなかったことを強く意識させられる。ブラームスの1番は、細胞レベルにまでロマン主義を定着させ、古典のロジックを殺さずに交響曲を組成してみせる。いや、ブルックナーの交響曲がロマン主義という包装で包まれたアンティークならば、ブラームスの1番は、バイオ・テクノロジーを用いた一種異様なキメラ。なのかもしれない... いや、このキメラが、今にして、凄く、魅力的...
なんて、いろいろ夢想させてくれるのです、"Opening Doors"のブラームス。やっぱり、ダウスゴーの感性はただならない。見事に既成のイメージをブチ壊して、真新しい何かをサルヴェージする。いや、既存のイメージがあまりに強過ぎるがために、第一印象は戸惑いすら覚えるのだけれど、聴けば聴くほど、その新しいヴィジョンに納得させられる。まずその始まり、あの、何か宿命的な、1楽章の冒頭から、そういう勿体ぶった表情を、一切、切り捨てて、徹底して淡々とリズムを刻んで、エモーショナルさを洗い落す。洗い落せば、また違った豊かな表情が浮かび、それを丁寧に綾なして、確かな交響楽を紡ぎ出すダウスゴー。そんなダウスゴーに応えるスウェーデン室内管の、"室内"という規模なればこそのタイトさが生む、クリアかつ、締まった響きが、ブラームスの1番に、絶対音楽=交響曲としての性格を強調させるようで... すると、"ベートーヴェンの10番"という、ちょっと大風呂敷を広げてしまった呼び方にも、リアリアティが生まれるから、おもしろい。いや、凄い!ダウスゴー+スウェーデン室内管のブラームスの1番は、ウィーンの豊潤さとは一味違う、硬派な音楽。いや、ハード・ボイルド?安易に新古典派であることを強調するばかりでなく、渋い雰囲気も漂わせるから、魅力的。このあたりが"Opening Doors"の醍醐味... それにドンピシャではまる、ブラームス!1番!魅了される。
という1番の後で、真逆のプラームスが聴けるのが、このアルバムのさらなる魅力。ワルツ集『愛の歌』から、9曲、作曲者自身によるオーケストラ・アレンジ(track.5-13)で... それから、ハンガリー舞曲、作曲家自身のオーケストレーションによる1番(track.14)、3番(track.15)、10番(track.16)の3曲が取り上げられる。いや、新古典派というタイトルなんか、綺麗さっぱり忘れて、当世風のダンス、フォークロワなダンスで、B級ブラームスの人懐っこい魅力を徹底して引き出すダウスゴー+スウェーデン室内管。交響曲の後で、ライトな音楽を、あっけらかんと楽しませてくれる。しかし、交響曲とのコントラストが鮮やか!そうして、ブラームスの幅... というより、二面性を、さらりと提示して来る妙。一筋縄では行かない作曲家、ブラームスという存在を、またさらに際立たせて、その興味深い音楽世界に惹き込まれる。

Brahms ・ Symphony No. 1, etc. ・ SCO / Dausgaard

ブラームス : 交響曲 第1番 ハ短調 Op.68
ブラームス : 『愛の歌』 Op.52 から ワルツ 第1番 「話しておくれ、乙女」
ブラームス : 『愛の歌』 Op.52 から ワルツ 第2番 「波は岩にあたり」
ブラームス : 『愛の歌』 Op.52 から ワルツ 第4番 「夕べの美しい紅」
ブラームス : 『愛の歌』 Op.52 から ワルツ 第6番 「小さなかわいい小鳥」
ブラームス : 『愛の歌』 Op.52 から ワルツ 第5番 「緑のホップの蔓が」
ブラームス : 『新・愛の歌』 Op.65 から ワルツ 第9番 「私の心を苦しめる毒がある」
ブラームス : 『愛の歌』 Op.52 から ワルツ 第11番 「いいえ、付き合いたくありません」
ブラームス : 『愛の歌』 Op.52 から ワルツ 第8番 「お前の瞳がそんなにやさしく」
ブラームス : 『愛の歌』 Op.52 から ワルツ 第9番 「ドナウの岸辺」
ブラームス : ハンガリー舞曲 第1番 ト短調
ブラームス : ハンガリー舞曲 第3番 ヘ長調
ブラームス : ハンガリー舞曲 第10番 ヘ長調

トマス・ダウスゴー/スウェーデン室内管弦楽団

BIS/BIS-1756




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