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シューベルト、「未完成」を完成させたら... [2018]

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シューベルトの交響曲はいくつある?昔、「グレイト」は、9番だったけれど、いつの頃からか8番に... 現在は、完成された交響曲の8番目が「グレイト」ということになっている。けれど、昔の8番、今の7番は、「未完成」だから、ツッコミを入れずにいられない。そもそもシューベルトには「未完成」ばかりでなく、未完成の交響曲が多い。現在、14曲の存在が確認されているシューベルトの交響曲。内、6曲が未完成(「未完成」も、そこに含む... )。このあたりに、シューベルトのヘタレっぷりを感じずにはいられない。のだけれど、裏を返せば、後の世に、課題を残してくれたと言えるのかも... そして、それら課題は、指揮者や音楽学者、作曲家らによって、様々に取り組まれ、中には、ベリオのレンダリングのように、魔改造というか、魔増築された作品まで出現!未完成であることは、実は、より創造的なのかもしれない。改めて、振り返ってみると、そんな風にも思えて来る。
ということで、「未完成」の完成形!アーノンクール亡き後、シュテファン・ゴットフリートを新たに音楽監督に迎えたウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏で、シューベルトの「未完成」、サマーレとコールスによる補筆完成版(APARTÉ/AP 189)で聴く。

シューベルト(1797-1826)が初めて交響曲に挑むのは、寄宿学校、コンヴィクト(ウィーン少年合唱団の前身、宮廷礼拝堂の聖歌隊員たちのための学校... )の学生だった1811年頃... しかし、10代半ばでの果敢な挑戦は、力不足もあり、未完に終わっている。が、次なる挑戦で1番の交響曲が誕生する。それが、1813年、16歳の時だったから、やはりタダモノではなかったシューベルト。そこから、毎年のように交響曲を完成させ、4番、「悲劇的」(1816)に至っては、聴き応え十分の堂々たる交響曲を繰り出し、5番(1816)では、歌曲王らしい歌謡性が聴こえて来て、6番(1817-18)では、同世代のスター、ロッシーニを思わせる軽快さも見せ、個性と当世風の間で、巧みにバランスを取り、シンフォニストとしての歩みを、着実に進めていた。のだったが、6番(1817-18)の次が未完に終わり... その次も、そのまた次(は、ピアノ譜が完成しており、かつて、これを7番として数えた... )も完成させられず、そして「未完成」へと至る。もちろん、これも未完成... いや、「未完成」は、未完成である状態のまま完成としたことで、かえって象徴的な存在感を放っているからおもしろい。
1822年に作曲が開始される「未完成」。普段、聴いている前半の2つの楽章が完成された後、3楽章の冒頭から20小節が書かれるも、作曲は中断され、まさに「未完成」となる。その後、シューベルトの友人、ヒュッテンブレンナーの元に2楽章までのスコアが送られ(ヒュッテンブレンナーが務めていたシュタイアーマルク音楽協会の名誉会員に迎えられたシューベルトが、その返礼に送った?残りの楽章は後日?)、そのままとなり、作品の存在は忘れ去られてしまう(1865年になって再発見、ようやく日の目を見ることに... )。となると、意図して「未完成」になったわけではないのか?シューベルトは3楽章を書き出しており、20小節以後に関してはピアノ譜も残っているだけに、交響曲らしい形で完成させる予定はあったのだろう。というあたりを汲み、作曲家、サマーレ(マーラーの10番の補筆でも知られる... )と、音楽学者、コールス(ブルックナーの9番の補筆で知られる... )により完成された「未完成」をここで聴くのだけれど、興味深いのと同時に考えさせられてしまう。
冒頭からの20小節を手本に、ピアノ譜を肉付けすればいい3楽章(track.10)は、シューベルトが望んだ形に肉薄できていると思う。のだけれど、そうして響き出すベートーヴェン風の豪放なスケルツォは、前の2つの楽章からすると、少し大味な気がして... 終楽章に関しては、何も残されてない中、同時期に作曲されていた劇音楽『ロザムンデ』(1823)の第1曲、間奏曲が、実は「未完成」の終楽章として作曲され転用されたものではないか?という推論に基づき、演奏されるのだけれど、いや、ちょっと間奏曲とは思えない充実っぷりに、そうかも、と思わせてくれる。一方で、劇音楽らしいドラマティシズムが、ロマンティックに昇華され、シューベルト後に開花するロマン派交響曲の方向性を示すようで、実に興味深い。が、やっぱり、1楽章、2楽章のただならなさには及ばず... ブルックナーを予感させる峻厳さに包まれる1楽章、達観と激情が綯い交ぜになりながら、やがて静かにフェードアウトしてゆく象徴的な2楽章... 聴き慣れているせいもあるのか、2楽章で終わる「未完成」、十分に完成形を示している気がしてしまった。というより、2楽章構成のイレギュラーが、かえって交響曲として真に迫り得ているようにも感じられて... 改めて「未完成」を見つめ直す機会を与えてくれた補筆完成版だった。
さて、このアルバムの、もうひとつ大注目な点が、アーノンクール亡き後のウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏!とかく創設者と一心同体になりがちなピリオド・オーケストラ... ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの場合、アーノンクールの個性が特に際立っていただけに、どうなってしまうのだろう?というところに登場した新音楽監督、ゴットフリート。ピリオド系の鍵盤楽器奏者として活躍しながら、ピアニストとしてアーノンクール、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスとも共演を重ねていたところ、2016年、そのアーノンクールが世を去り、代役として指揮台に立って以来、音楽監督を引き継ぐことになった存在。で、この録音が、ゴットフリート+ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの初録音... いや、興味津々だったのだけれど、期待は裏切りません!アーノンクールっぽい、ガツンとしたサウンドもありつつ、より肩の力が抜けて、端正かつ瑞々しさに包まれるのか... 特に、「未完成」の前で取り上げられるシューベルトの歌曲で、新体制の魅力が存分に発揮される!
世界的に活躍するドイツのバス・バリトン、ベッシュの歌で、ヴェーベルンとブラームスによってオーケストレーションされたシューベルトの歌曲、7曲(track.1-7)が取り上げられるのだけれど、卒なく伴奏に徹しながら、吸い込まれそうな瑞々しさを生み出すゴットフリート+ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏。もちろん主役はベッシュではあるのだけれど、その後ろで、美しい情景を描き出すようで... アーノンクール時代とは違うしなやかさを見せ、魅了されずにいられない。そして、ベッシュ... もう、唸ってしまうほどにナチュラルで、程好く詩情を湛えたその歌声、得も言えず等身大... 仰々しさは一切無く、詩に綴られた心情を素直に歌い、聴く者の心に入り込んで来るかのよう。で、ゴットフリート+ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスによる美しい背景と相俟って、聴き入るばかり。また、ロマン派の先駆けとしてのシューベルトに迫るヴェーベルン、古典派の延長線上にいたシューベルトに厚みをもたらすブラームスのオーケストレーションも効いていて、それをピリオドで取り上げれば、かえって"シューベルト"が際立つようでもあり、おもしろい。

SCHUBERT: SYMPHONY NO. 7 'UNFINISHED'

シューベルト : 涙の雨 〔歌曲集 『美しき水車小屋の娘』 D 795 から〕 〔オーケストレーション : ヴェーベルン〕 *
シューベルト : 道しるべ 〔歌曲集 『冬の旅』 D 911 から〕 〔オーケストレーション : ヴェーベルン〕 *
シューベルト : メムノン D 541 〔オーケストレーション : ブラームス〕 *
シューベルト : ひめごと D 719 〔オーケストレーション : ブラームス〕 *
シューベルト : 彼女の肖像 〔歌曲集 『白鳥の歌』 D 957〕 〔オーケストレーション : ヴェーベルン〕 *
シューベルト : タルタルスの群れ D 583 〔オーケストレーション : ブラームス〕 *
シューベルト : 君はわが憩い D 776 〔オーケストレーション : ヴェーベルン〕 *
シューベルト : 交響曲 第7番 ロ短調 「(未)完成」 D 759 〔補筆 : サマーレ、コールス〕
シューベルト : 劇音楽 『魔法の竪琴』 D 644 序曲

フロリアン・ベッシュ(バス・バリトン) *
シュテファン・ゴットフリート/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス

APARTÉ/AP 189




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