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第九、日本初演、100年目の年の瀬に聴く、第九。 [2017]

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没後150年のロッシーニに、没後100年のドビュッシー... 2018年のクラシックの顔を、改めて見つめた今月半ば。ここで視点を変えまして、今年、日本初演100年のメモリアルを迎えた、あの年末の定番に注目!そう、第九です。1824年、ウィーンで初演されて以来、間もなく2世紀が経とうという中、ウィーンから遠く離れた東の果て、日本で、今や1万人で歌えてしまうほどの知名度を得た事実... 楽聖は、あの世から、どんな風に見つめているだろう?初演時、すでに耳が聴こえなくなっていたベートーヴェン、第九に熱狂する客席に気付かず、アルト歌手に促され、初めて客席の方へと向き直り、その大成功を知ったというエピソードを思い起こすと、日本の年末の様子も、感慨を以って見つめてくれる気がする。1万人なんて、コンサートという観点からすれば、正気の沙汰ではないけれど、1万人もの人々がひとつ声を揃えて歌うことは、まさに第九の精神を具現化したと言えるわけで... 何なら1万人なんて限ることなく、日本全国で、同時刻、それぞれの場所で、一斉に歌い出せばいい... いや、日本に限らず、全世界で歌えば、このギスギスとした21世紀の空気感も変わるかもしれない。
なんて夢想しながら、改めて第九を味わう。マルティン・ハーゼルベックが率いるピリオド・オーケストラ、ウィーン・アカデミー管弦楽団による、ベートーヴェンの初演時の響きに、初演会場まで考慮して可能な限り迫ろうという実にチャレンジングなシリーズ、"RESOUND BEETHOVEN"から、VOL.5、ベートーヴェンの交響曲、第9番、「合唱付き」(Alpha/Alpha 476)を聴く。

さて、今から100年前、1918年、第九が日本初演されました。場所はというと、徳島県、鳴門市にあった板東俘虜収容所... いや、かの第九の日本初演が、捕虜収容所だったとは、びっくりしてしまうのだけれど、その背景を知ると、さらに驚かされることに... 1914年、第1次大戦が勃発すると、世界はイギリス―フランス―ロシアvsドイツ―オーストリア―オスマン・トルコと二分され、対戦。日本は日英同盟を根拠に、中国の山東半島にあったドイツの租借地を占領、多くのドイツ兵を捕虜とする。その捕虜たちを収容したのが、板東俘虜収容所... で、収容所の所長を務めた松江豊寿陸軍中佐が、実にユニークな人物だった!戊辰戦争で賊軍の汚名を着せられた会津の出身だった中佐は、捕虜たちをけしてぞんざいに扱うことなく(という態度が、軍中枢から目を付けられてもいるのだけれど... )、それどころか、収容所内に自主独立の体制を布き(軍からの予算が削減され、そうせざるを得なかったとも言えるのだけれど... )、徴兵される前は、様々な仕事に就いていたドイツ兵たち本来の職能をフルに活かし、収容所は、さながら小さなドイツの町のような様相を呈する。驚くべきは、周辺の一般人とも交流、ドイツの技術や文化が地元に伝えられ、敵味方、収容する側、される側、垣根を越えて、思い掛けない友情が育まれることに... そんな収容所の中に誕生したのが、捕虜たちによるオーケストラ!何だか、第2次大戦のテレージエンシュタット(ナチス・ドイツがチェコに設けたユダヤ人の収容所... )を思わせるのだけれど、当然、その結末は、完全に違った... 1918年、第1次大戦が終戦を迎えると、ドイツ兵たちは解放され、その際に演奏されたのが、第九。それは終戦の喜びであり、解放と帰国への喜びであり、友情の歌だったのだろう。第九の日本初演は、極めて特殊な状況の中にありながら、これ以上に無く、第九の精神を反映したものだったのかもしれない。
という、第九、日本初演、100年目の年の瀬に聴く、第九... ハーゼルベック+ウィーン・アカデミー管の演奏で聴いてみるのだけれど... いや、ハーゼルベック(b.1954)、個性極まるピリオドの世界にあって、何となくぼんやりとした印象のある指揮者だったなと... それが、俄然、おもしろくなって来たのが、2010年代に入って取り組んだリストの交響詩のツィクルス!ウィーン・アカデミー管のピリオドならではの味のあるサウンドに、キレとスケールを盛り込んで、目から鱗のリストを響かせて、魅了。そうして、ベートーヴェンへと挑んだ"RESOUND BEETHOVEN"!1990年代、2000年代を経て、ピリオドによるベートーヴェンも出し尽くされた観がある中での、リサウンドという大胆さ... そこには、リストでの経験が見事に活かされ、徹底してその初演に立ち返りながらも、単にその時を再現するばかりでない、その時に渦巻いていただろう人々の思いまで汲み取って、音楽に独特の人間臭さを纏わせるような感覚があるのか... 20世紀末から21世紀初頭に掛けてのピリオド・アプローチは、アカデミズムに胡坐を掻き、積もり積もった大時代的な慣習やら、何やらを洗い落として、ピュアな響きをすくい上げることに熱心だったのに対し、ピュアな響きだけでは見えて来ない生々しい情景を呼び起こすのが、ハーゼルベックのリサウンドなのかなと... そうして響き出す第九は、1楽章から興味深く、独特な佇まいを見出す。
どこか超越した世界を意識させる、啓示的な1楽章... あの音楽を、ハーゼルベック+ウィーン・アカデミー管で捉えると、ウィーンを意識させられる。それも、東欧の玄関たるウィーン... 西欧の交響楽のクリアな感覚とは違う、例えばバルトークを思い起こさせるような、仄暗さやローカル性が漂って、不思議。続く、2楽章(track.2)のリズミカルなあたりも、軽快に繰り出すのではなく、少し引き摺るように展開し、あえて垢抜けないような表情を生み出すのか... そうして民俗舞曲のような風合いを与えて、大地に根差した音楽を展開。そこから、甘やかな3楽章(track.3)へとつなげられると、その甘やかなあたりに、マーラーが感じられ、おおっ!?となる。いや、ベートーヴェンも、マーラーも、同じくウィーンの作曲家であったなと、今さらながらに再確認。でもって、ハーゼルベックは、このウィーン性を際立たせることで、かつての東欧と地続きだったウィーンの音楽を呼び覚まそうとしているのかもしれない。音楽(西欧音楽)の都、ウィーンではなく、ハプスブルク帝国(東欧版EU)の首都、ウィーンの生々しさ... なればこそ、滴るように歴史は浮かび上がり、かつての時代を濃密に追体験させられ、またそこに、より強くベートーヴェンの魅力が顕われるかのよう。そうして惹き込まれる!
そうして、歌い出される歓喜の歌(track.4)は、よりダイレクトに聴き手に語り掛けるようで、いつもより解り易くあるような印象を受ける。で、すべての人々は兄弟となる!この第九精神が、シンプルに盛り上げられて、素直に感動が膨らんで行く。また、そんな4楽章から、そこに至るまでの3つの楽章を振り返ると、独特の気安さ、人懐っこさを覚えて、崇高な音楽としての第九ではない、より身近な第九とでも言おうか... それは、ベートーヴェンが楽聖に祀り上げられる前の、まさに初演の時の客席との距離感なのかもしれない。ウィーンの作曲家、ベートーヴェンが、ウィーンっ子たちに語り掛ける、おお、友よ!であって、なればこそ、すべての人々は兄弟となる!に、何かリアリアティが生まれるような、親密さを感じてしまう。4人のソリストの素直な歌声、シネ・ノミネ合唱団の味のあるコーラスも相俟って、何か、すとんと落ちて来る第九に仕上がっているのがおもしろい。いや、人間味に溢れる第九であって、そんな第九が、2018年の年の瀬に、もの凄く沁みてしまう。何だろう?このリアルな第九?そのリアルなあたりに、等身大の感動を味わえる。

RESOUND BEETHOVEN VOL. 5 SYMPHONY NO.9 IN D MINOR, OP.125

ベートーヴェン : 交響曲 第9番 ニ短調 Op.125 「合唱付き」

ローラ・エイキン(ソプラノ)
ミカエラ・ゼリンガー(メッゾ・ソプラノ)
スティーヴ・デイヴィスリム(テノール)
ホセ・アントニオ・ロペス(バリトン)
シネ・ノミネ合唱団
マルティン・ハーゼルベック/ウィーン・アカデミー管弦楽団

Alpha/Alpha 476




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