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ボエティウス、慰めの歌。 [2018]

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秋バテ?とか言ってたら、風邪だった... みたいな展開になっております。みなさんは、体調など、崩されてはおりませんか?ということで、10月は、「癒し系」で、癒される!前回は、ジョン・ルーサー・アダムス、アラスカの"ルーサー"の、スケールの大きな音楽で癒されましたが、さらに、さらにスケールは大きくなりまして、既存の音楽の枠組みを超越し、この世の全てに音楽を見出す... ムジカ・ムンダーナ(宇宙、世界を調律する音楽)、ムジカ・フマーナ(人間の身体を調律する音楽)、ムジカ・インストゥルメンターリス(声、楽器による、人の耳に聴こえる音楽)という壮大なる音楽像を語った、古代と中世をつなぐ哲学者、ボエティウス(480-525)に注目。しかし、古代、中世の人々は、宇宙にも、世界にも、人体にも、音楽を見出していたわけです。いや、あまりにも壮大過ぎて、ちょっとついて行けないのだけれど、裏を返せば、人々は、宇宙や世界、人体に対して、音楽を意識する感覚を失ってしまったと言えるのかも... いや、考えさせられてしまう。音楽が、ただ耳に聴こえるだけのものとなった現在、世界は不協和音に充ち満ちていて、音楽の捉え方を、今一度、見つめ直す時が来ているのかも...
さて、ボエティウスなのだけれど、哲学者であって、音楽は残していない... ので、ここで聴くのは、そのボエティウスの哲学書、『哲学の慰め』をテキストに、11世紀、イギリス、カンタベリーで音楽が付けられ、歌われたとされる手稿譜を再構成、再現するもの。で、セクエンツィアの歌と演奏による、中世、"ボエティウスの慰めの歌"(GLOSSA/GCD 922518)で、癒される。

音楽家ではないけれど、その音楽理論で、中世の音楽に決定的な影響を与えたボエティウス。古代ローマの貴族の家に生まれ、本業は哲学であり、東ゴート王国(中世の火蓋を切るゲルマン民族大移動でやって来た東ゴート族が、消滅して間もない西ローマ帝国の中心、イタリア半島で、東ローマ帝国から行政権を委託される形で建国された王国... )の諸官僚の長(行政長官みたいなイメージ?)を務めた人物。当時、大変な博学で知られ、様々なジャンルにおいて著述を残すことになるのだけれど、その最初にあたるのが、古代における数学的4学科についてのもの。で、そのひとつが、古代ギリシアの音楽理論をまとめた『音楽教程』。いや、音楽は数学と肩を並べていたわけです、古代から中世に掛けて... 反面、現代における音楽の扱われ方の軽さと来たら、もう... は、さて置き、この『音楽教程』で語られるのが、前述した、ムジカ・ムンダーナ、ムジカ・フマーナ、ムジカ・インストゥルメンターリスという捉え方。宇宙に、世界に、人体に音楽を見出すという興味深さたるや!なればこそ、音楽は数学に関連付けられ、哲学者が語るわけだ。そして、その壮大なる音楽、耳に聴こえない音楽を知るために、耳に聴こえる音楽を学ぶ。古代の人たちの音楽の捉え方は、深い... もちろん、そうした観念的な音楽だけでなく、実践的な音楽も伝える『音楽教程』。古代ギリシアにおける音律、旋法について、緻密に書き記し、中世の音楽に重要な指針を残した。が、ボエティウスは、反逆の疑いを掛けられ投獄、やがて処刑されてしまう。
その獄中で書かれたのが、『哲学の慰め』。理不尽な投獄、その先にあるだろう死、無情な運命を突き付けられての境地を、自身と、女性に擬人化した哲学と対話する形で綴る。という哲学書は、多くの写本が書かれ、やがてヨーロッパ中に広まり、中世はもちろん、それ以後の文学にも大きな影響を与えている。そんな『哲学の慰め』が、イギリスへも伝わり、11世紀、カンタベリー(イングランドにおけるキリスト教布教の拠点となった街で、以降、イギリスにおける教会の中心... )で音楽を付けられ、歌われたのが、"ボエティウスの慰めの歌"。『音楽教程』を学んだであろう、当時の音楽家(修道士)たちが、『哲学の慰め』を歌うということは、500年の時を経て、ボエティウスの音楽を具体化したていると言えるのでは?また、11世紀のイングランドは、ボエティウスが生きた6世紀のイタリアに似て、激動期(デンマークからの独立、ウェセックス王家の復権があって、ハロルド・ゴドウィンの登極とノルマン・コンクエスト... )。そういう不安定な中、歌われた『哲学の慰め』は、ボエティウスの境遇と共鳴する感覚もあったのでは?それからさらに1000年を経て、21世紀、ケンブリッジ大学のサム・バレット博士が、失われていた部分を様々な手稿譜を当たって再現を試み、再構成し、蘇らせたものが、ここで聴く、"ボエティウスの慰めの歌"。1000年、1500年と時代を遡った音楽には、普段、耳にする音楽とは違う空気が存在している。
始まりの"Carmina qui quondam"、まるで風の音のような渋いフルートと、雨が降り出したようにポツンポツンと鳴り出すハープ... 聴き馴染んだ西洋の響きとはまた違う、自然そのものを感じるような、独特の佇まいがあって、ちょっと衝撃的(何となく、尺八と箏を思わせる... )。中世の音楽は、よりフォクーロワに近く、時としてプリミティヴですらあったりするのだけれど、セクエンツィアの響きは、何か突き抜けている。そこに、素朴かつ雄弁なバグビーのバリトンの歌声が聴こえて来ると、もう、タイム・スリップしてしまったかのよう。1000年前の激動の中を生きたカンタベリーの音楽家たち、1500年前のボエティウスの遣る瀬無さ、そうした感情が共鳴して、じわりじわりとエモーショナル。いや、ルネサンス、バロックと、西洋音楽が洗練されて行く以前の音楽の、魂の籠った歌い、演奏に、身も心も震える思い。これこそが、宇宙、世界、人体を意識して音楽が紡がれていた頃のスケール感か?実際に響いている楽器、歌声は、素朴の極みにあるのだけれど、音楽としての密度は、ただならない。その密度に触れてしまうと、何だか、その後の音楽が、上っ面に思えてしまう。そして、そういう音楽で慰めるわけである。耳に心地良い癒しではなく、宇宙、世界、人体を鳴動させて癒しに来るただならなさ、圧倒的。
その圧倒的を引き立てるのが、優秀録音!中世の古楽器のひと癖ある音色を、しっかりと捉えて... ハープならば、一音一音が目の前で弾けるかのよう。この距離感に、ゾクっとさせられる。さらに、その息遣いまで感じられそうなフルート... ローデンキルヒェンのすばらしいパフォーマンスが、より生々しく捉えられていて、スピーカーからは体温まで感じられそうなほど... そうした録音があって際立つ、セクエンツィアの凄さ!中世のスペシャリストならではの本物感!特に、バグビーとマルティの歌い!程好い残響を纏った味わい深いバグビーの声は、ちょっと魔法掛かっていて、賢者が歌うような風格を見せ... いや、ボエティウスが憑依したかのようで... 明朗ながら翳も帯びるマルティの声は、その一筋縄には行かないあたりが、古代のミステリアスさを思い起こさせ... いや、バグビーもマルティも、ハープも弾いてだから、本当に凄い。という凄い3人が結集すると、ハープ、フルート、声、実にシンプルな編成でありながら、それ以上の存在感を生み出してしまうマジカルさ!ムジカ・ムンダーナ、ムジカ・フマーナの存在を、喚起させるかのよう...そして、癒される。

BOETHIUS SONGS OF CONSOLATION

ボエティウスの『哲学の慰め』による慰めの歌

セクエンツィア
ベンジャミン・バグビー(ヴォーカル、ハープ)
ハンナ・マルティ(ヴォーカル、ハープ)
ノルベルト・ローデンキルヒェン(フルート)

GLOSSA/GCD 922518

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