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オペラから視点を外して... ロッシーニ、岐路の機会音楽。 [before 2005]

ロッシーニが生きた時代というのは、どんな時代だったのか?ロッシーニが幼かった頃、フランス軍と教皇軍はイタリア半島中部でせめぎ合い、ロッシーニ一家は、大いに翻弄されている。が、ナポレオンがヨーロッパをその手中に収める頃、ロッシーニはその才能を開花させ、21歳でブレイク!それから間もない1814年、ナポレオンが敗退、1815年には完全に排除されると、保守反動のウィーン体制が確立され... そうした時代を反映するように、ナポレオンが登場する前の18世紀の音楽の延長線上に魅力的なオペラを次々に生み出す。その終着点として、音楽の都、パリに進出!ロッシーニは、若き巨匠として全盛期を迎える。が、1830年、七月革命により、ウィーン体制が大きく傾くと、それに共鳴するかのように、オペラを書くことをやめてしまうロッシーニ... 体調を崩し、実家のあったボローニャへと帰るも、1848年、ヨーロッパは再び革命の季節を迎え、イタリア統一運動が一気に熱を帯びると、ロッシーニは時代の荒波に揉まれ、脱出するかのように、再び、パリへと向かう。いや、オペラの巨匠として悠々自適の人生を送っていたかというと、けしてそう単純では無く、うつろう社会と呼応するように、上がったり下がったり、なかなかドラマティックな人生を送ったのがロッシーニの真実...
ということで、ロッシーニの人生の岐路に書かれた2つのカンタータを見つめてみようと思う。リッカルド・シャイーの指揮、フィラルモニコ・デッラ・スカラの演奏と合唱で、キャリアのギアが入る1816年のカンタータ『テーティとペレーオの結婚』(DECCA/466 328-2)と、波乱の前兆、1847年の教皇ピウス9世を讃えるカンタータ(DECCA/458 843-2)の2作品を聴く。


1816年、ナポリのロッシーニ、めでたし!ロイヤル・ウェディングのためのカンタータ。

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ボローニャが育てたロッシーニという才能を見出し世に送り出したのはヴェネツィアだった。そして瞬く間にイタリア中がその才能に夢中になった... が、18世紀のオペラの発信基地、ナポリは、その波に靡かなかった。なぜなら、ナポリには、ナポレオンのお気に入り、ナポリ楽派、最後の巨匠、パイジェッロが未だ健在だったから... が、ナポレオンが敗退すると、1815年、かつてのナポリ王、フェルディナンド4世(在位 : 1759-1806, 1815-25)が帰還。パイジェッロは解雇。そこにヘッド・ハンティングされてやって来たのが、新進気鋭のロッシーニ!それは、政権交代の象徴だったと言えるのかもしれない。そんなロッシーニが、ナポリにやって来た翌年、1816年、王家の婚礼(フェルディナンド4世の孫娘が、フランス王、ルイ18世の甥に嫁ぐ... )を祝って書いたのが、カンタータ『テーティとペレーオの結婚』(track.1-18)。ギリシア神話の女神、テティスと、プティーアの王、ペレウスの結婚を描く物語は、ナポリ楽派のオペラ・セリアの伝統を踏襲したものに感じられ... それでいて、ナポリ楽派、黄金期の華麗さだろうか、どこか古き良き宮廷音楽の時代の匂いを漂わせて、いつものロッシーニのオペラよりも、たおやかに感じられるのが印象的。また、レチタティーヴォが、ナポリっ子好みのオーケストラ伴奏によるレチタティーヴォ・アッコンパニャート(フランス支配の影響で、トラジェディ・リリクの影響が、思い掛けないところで表れていた... )で書かれていて、ナポリの音楽シーンを意識(『テーティとペレーオの結婚』は、宮廷ではなく、オペラ・ブッファを上演するフォンド劇場で初演されている... )した仕上がり... 宮廷の耳も、ナポリっ子の耳もしっかり掴もうという、若き作曲家の野心がそこはかとなしに感じられ、ふんわりとハッピーな雰囲気で包みながら、抜け目無い。
で、このカンタータも、どこかで聴いたフレーズが次々に現れて、あっ!これ、何だっけ?みたいなことに... その典型的な例が、チェレレのアリア「ああ、復讐の女神たちには抗えない」(track.15)。『テーティとペレーオの結婚』が初演される2ヶ月前、ローマで初演されていた『セヴィーリャの理髪師』の、フィナーレ前で歌われるアルマヴィーヴァ伯爵(テノール)のアリア「もう逆らうのをやめろ」が、チェレレ(メッゾ・ソプラノ)のアリアに転用され、翌年、1817年に初演されることになる『チェネレントラ』のアリア・フィナーレ「悲しみと涙の中に生まれ」に転用されて... このメロディーは、『チェネレントラ』のイメージが強いから、他の作品で耳にすると、ちょっと調子が狂うような感じもするけれど、転用されるだけに魅力的!で、それを、チェネレントラを得意とするバルトリが歌うものだから、おもしろい。いや、見事な歌いっぷり!やっぱり、ロッシーニ作品は歌手を選ぶ... でもって、他の歌手たちも見事!ペレーオを歌うフローレス(テノール)、ジュノーネを歌うバルチェッローナ(コントラルト)など、豪華にして手堅いキャスティングが光り、機会音楽は再び輝き出す。シャイーの指揮、スカラ・フィルの演奏も丁寧にして色鮮やか。ロッシーニの魅力をしっかりと引き出して、魅了される。そして、何気に大活躍のスカラ座の合唱団!表情豊かでありながら、品位が感じられ、婚礼祝いの音楽の祝祭感を絶妙に引き立てていて、素敵。
という『テーティとペレーオの結婚』の後で取り上げられる、ロッシーニのボローニャ音楽学校時代の作品、1808年に作曲されたカンタータ『オルフェオの死に対してのアルモニアの嘆き』(track.19-24)がまた実に興味深い!19世紀になって10年も経っていないという状況(ハイドンがウィーンで世を去るのは、翌年のこと... )を反映して、手堅く古典主義が繰り出されるのだけれど、そのシンフォニア(track.19)には、ウェーバーを思わせるロマン主義の萌芽も聴き取れて、印象的。単に優等生なだけでなく、最新の音楽にも目敏く反応する学生ロッシーニの姿が、何だか微笑ましくある。でもって、ロッシーニは優秀だが、カリキュラムからはみ出すような存在で、ボローニャ音楽学校の校長先生に目を付けられていたようだけれど、そのあたり、何となく聴こえて来るような気がする。しかし、これが16歳の作品であるということが、凄い... もちろん、ロッシーニらしさも聴こえ始めていて... 終曲(track.24)のソロとコーラスの掛け合いには、すでに後のオペラの形が見えていて、驚かされる。しかし、改めてロッシーニを見つめると驚かされることばかりだ...

ROSSINI: LE NOZZE DI TETI, E DI PELEO ・ IL PIANTO D'ARMONIA
ORCHESTRA FILARMONICA DELLA SCALA/CHAILLY


ロッシーニ : カンタータ 『テーティとペレーオの結婚』
ロッシーニ : カンタータ 『オルフェオの死に対してのアルモニアの嘆き』

テーティ : エリザベッタ・スカーノ(ソプラノ)
ペレーオ : ファン・ディエゴ・フローレス(テノール)
チェレレ : チェチーリア・バルトリ(メッゾ・ソプラノ)
ジュノーネ : ダニエラ・バルチェッローナ(コントラルト)
ジョーヴェ : ルイージ・ペトローニ(テノール)

アルモニア : ポール・オースティン・ケリー(テノール)

リッカルド・シャイー/フィラルモニカ・デッラ・スカラ

DECCA/466 328-2




1847年、ローマのロッシーニ、リソルジメント、万歳!"覚醒教皇"のためのカンタータ。

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フランス政府との年金支給問題(1830年、七月革命で亡命した前国王、シャルル10世との契約を、新たな政府に履行してもらおうとした... )に方を付けたロッシーニは、1836年、パリを離れ、故郷、ボローニャへと帰る。が、体調不良は続き、母校、ボローニャ音楽学校の名誉顧問に就任したくらいで、大きな仕事をすることは無かった(そうした中、1842年、スターバト・マーテルを完成させたことは、この時代のロッシーニとって、輝かしい出来事だった... )。そんな停滞するロッシーニの人生の一方で、イタリアの政治情勢は大きく動き出す。ナポレオン敗退により確立されたウィーン体制下、イタリア半島は、フランスに代わりオーストリアが影響下に置いていたが、保守反動のウィーン体制への反発は日に日に強まり、民主化運動は活発化、またそれは、中世以来の分封支配を終わらせ、他国の干渉を受けない強いひとつのイタリアを生み出そうと、イタリア統一運動=リソルジメントへと発展。反オーストリアで、熱を帯びて行く。そこに、救世主のような存在が現れる!1846年に選出された、ローマ教皇、ピウス9世(在位 : 1846-78)。異例の54歳という若さでの選出(ちなみに、近代のありとあらゆるものを嫌った前任者、グレゴリウス16世は、65歳で選出... )であり、また改革派からの選出だったことから、イタリアの人々は、この新しい教皇を"覚醒教皇"と呼び、多大な期待を抱いてしまう。そんなピウス9世の就任を祝うため、教皇領、ボローニャ在住、教皇と同い年のオペラの巨匠、ロッシーニに、カンタータが委嘱される!それが、1847年、ローマ市庁舎のあるカンピドリオ広場で歌われた、教皇ピウス9世を讃えるカンタータ(track.7-16)。
いやー、ピウス9世への人々の期待を見事にすくい上げたドラマティックな音楽!始まりのシンフォニア(track.7)の暗澹たる表情から次第に明るさが差し、やがてコーラスが切なげなメロディーを歌い出すも、喜びが溢れ出し(track.8)、そこに印象的なテノールによるレチタティーヴォ・アッコンパニャート(track.9)が響き、何と雄弁な!当然ながらと言いますか、教皇ピウス9世を讃えるカンタータは、旧作のオペラ、『リッチャルドとゾデライーデ』、『エルミオーネ』、『アルミーダ』、『コリントの包囲』からの素材を使い回しているのだけれど、なればこその魅力があって... キャッチーなメロディーに乗って、次々に新教皇への賛美が歌われる!いや、これは、ショスタコーヴィチを越えて行くような鮮やかなプロパガンダとも言えるのかもしれない。最後の行進曲風(track.16)は、革命歌にも思えなくもない?で、興味深いのは、ロッシーニがこの作品を喜んで作曲していたわけでないところ... 体調不良が続き、作曲という行為そのものが難しくなっていた中で、反愛国的というレッテルを貼られることを恐れて、しぶしぶ作曲したとのこと... このあたりも、何だかショスタコーヴィチと重なる。が、状況は風雲急を告げる!1848年、パリで二月革命が勃発し、ウィーン体制が完全に瓦解すると、ヨーロッパは一気に流動的になり、教皇は革命の波及を恐れて保守化。期待に充ち満ちていた日々は一瞬にして去り、ロッシーニは、保守反動的として槍玉に挙げられる事態に... これが切っ掛けとなり、1855年、再びパリへと移ることになる。
という、極めてマニアックな機会音楽を取り上げるシャイー... このマニアックなマエストロならではであって、実に貴重な体験をさせてくれる。そして、その機会音楽に真摯に取り組むスカラ・フィルの手堅い演奏と、スカラ座の合唱団のコーラス!どんなにマニアックであっても、名門のオペラハウスの、イタリア・オペラの大家への自負がそこはかとなしに感じられて、その職人的な姿勢に惹き込まれる。で、彼らの魅力がより発揮されるのが、教皇ピウス9世を讃えるカンタータの前で取り上げる『ディドーネの死』(track.1-6)!ロッシーニがまだ本当に駆け出しだった頃、1811年に作曲されたカンタータは、若さが滾っていて、教皇ピウス9世を讃えるカンタータとは対照的。劇的な前奏曲の後に、力強いコーラス(track.2)が続き、そのままドラマティックなディドーネのレチタティーヴォ・アッコンパニャート(track.3)が続くあたりは、1770年代のパリを沸かせたグルックの疾風怒濤を思わせて、なかなか興味深い。いや、後のロッシーニのオペラと比べると、思いの外、濃密なドラマが展開されていて驚かされる。で、そのディドーネを歌うデヴィーア(ソプラノ)が、悲劇の女王然としていて、ドラマティックで、圧巻!シャイーはもちろん、スカラ座の面々も水際立っている!

ROSSINI: THE CANTATA, Vol.1
ORCHESTRA FILARMONICA DELLA SCALA/CHAILLY

ロッシーニ : カンタータ 『ディドーネの死』 〔パオロ・ロッシーニ校訂〕
ロッシーニ : 教皇ピウス9世を讃えるカンタータ 〔マウロ・ブカレッリ校訂〕

マリエッラ・デヴィーア(ソプラノ)
ポール・オースティン・ケリー(テノール)
ミケーレ・ペルトゥージ(バス)
フランチェスコ・ピッコリ(テノール)

リッカルド・シャイー/フィラルモニカ・デッラ・スカラ

DECCA/458 843-2




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