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ロマン主義の複雑、幻想交響曲。ベルリオーズ、赤裸々... [before 2005]

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19世紀、ロマン主義の時代を、ちょっと意識的に見つめて来た今月。これまで、あまりに漠然と見つめていた反動なんだろうけれど、見つめれば、見つめるほどに新鮮!いや、「ロマン主義」って、こういうものだったんだなと、今さらながらに腑に落ちるようなところもあったり。腑に落ちて、見えて来るパノラマもあったりで、お馴染みの名作も、今なら、俄然、ワクワクしながら聴けてしまうかも... ということで、19世紀、ロマン主義の時代を象徴するお馴染みの名作を聴いてみようかなと... 前回、聴いた、リストの交響詩の源流とも言える、標題交響曲の金字塔、幻想交響曲!で、交響詩から標題交響曲へと遡るのが、また興味深いのだよね...
でもって、鬼才、マルク・ミンコフスキの指揮、気鋭の室内オーケストラ、マーラー室内管弦楽団と、ピリオド・オーケストラの雄、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルの刺激的なジョイントで、ベルリオーズの幻想交響曲(Deutsche Grammophon/474 209-2)を聴く。

交響詩、前史としての標題交響曲... 幻想交響曲(1830)をそういう視点から捉えると、とても興味深く感じられる。そもそも"標題交響曲"という存在自体がおもしろい。絶対音楽であるはずの交響曲に、標題が付き、音楽に具体的なヴィジョンが埋め込まれてしまうという掟破り... で、この掟破りを最初に冒したのは誰か?ベートーヴェンの「田園」(1808)が、まず思い浮かぶ。刻々とうつろう田園の風景を、5つの楽章で表現した牧歌的な名作... 牧歌的で名作ゆえに、その革新性については、目立ち難いのだけれど、よくよく見つめると、この交響曲はただならない。しかし、さらに目を凝らすと、また違った風景が開ける。18世紀、古典主義の時代に、パストラル・シンフォニーというジャンルが人気を集め(ルソーの「自然に帰れ」の影響もあったか?)、ベートーヴェンは、その延長線上にいたとも言えるわけだ。そして、パストラル・シンフォニーばかりでなく、古典派の交響曲を丁寧に見つめると、ヴァラエティに富む姿を見出せる("交響曲の父"、ハイドンなんて、本当にいろいろ書いている... )。例えば、四旬節のための受難交響曲... これなどは、聖書に基づくドラマが交響曲というフォーマット上に描かれるわけで、まさに標題交響曲そのもの。何より、交響曲=シンフォニアが、オペラの序曲から独立したものであることを思い起こせば、18世紀における交響曲の成長の歴史は、ドラマ=具体性から如何に独立するかの歴史だったとも... という具合に、視野を18世紀まで広げて、標題交響曲、「田園」や幻想交響曲を改めて見つめると、そこには革新性より、かつての流行(パストラル・シンフォニー)や、遠い記憶(オペラの序曲)への回帰が窺える。
さて、幻想交響曲(track.1-5)なのだけれど、1830年、ベルリオーズが26歳の時、4度目の挑戦で、とうとうローマ賞を受賞する頃、七月革命の目前、6月に完成。で、アンシャン・レジームの亡霊とも言える復古王政(1814-30)の最期の混乱の中で作曲されたことを思うと、この交響曲の異様さが腑に落ちる。受賞と、革命と、そして、もうひとつ欠かせない要素、マリー・モークとの恋... この恋は、婚約にまで至るも、ベルリオーズのローマ留学中に立ち消えとってしまう。そして、その結末を予見するように、愛する女性を醜悪な魔女へと変容させる異様な物語を描き出したベルリオーズ。18世紀に遡る標題交響曲の形を用いながら、19世紀の錯綜する時代の気分を反映するかのように、情緒不安定で、やがて妄想に取り憑かれ、恐ろしい悪夢の果てに、カタストロフを迎える。それは、けして整った音楽ではない。若さが突っ走って、即興的に物語を展開するような、生々しい産物。しかし、その生々しさにこそ、1830年代、本格化するロマン主義が発光していて、引き寄せられる。が、それはロマン主義なのだろうか?改めて捉える幻想交響曲は、新旧の錯綜をまざまざと見せつけられ、あらゆる対象に対するベルリオーズの屈折した思いが滲み、屈折しているからこそ、割り切れず、聴いていると心を掻き乱される。一見、典型的なロマン主義の音楽のように感じられるのだけれど、若い作曲家の浅はかさと、過渡的な時代なればこその交錯が結び付き、赤裸々に音となって響き出してしまう... それをロマン主義と呼ぶには、あまりに剥き出し過ぎる気がする。それが、より顕著となる終楽章、サバト(track.5)の、焦点を失ってしまったような音楽の在り方は、近代音楽を予見するようで、そういう刺激的な様に、リストもインスパイアされたのだろう。
そういうベルリオーズを強く提示して来るミンコフスキ... 幻想交響曲の異様を、補正無しに繰り広げて、ギョっとさせられる。ギョっとさせられながらも、全ての瞬間が発見に変わり、26歳、ベルリオーズの生々しい真実が、痛々しいほどに突き付けられる。だから、交響曲とは言っても、チープなところは酷くチープで、よくよく耳を澄ますと、常に妙な音(補正されていない証拠?)が鳴っていて、それが、やたら不穏で、そんな部分に気を取られていると、眩暈を起こしそう... だけれど、目が離せない!全ての音を追わずにいられなくなる!ミンコフスキは、幻想交響曲の最も胡散臭いところを刺激して、聴く者に取り憑いて来るかのよう。そして、ベルリオーズの生々しい真実を強調するのが、幻想交響曲の後で取り上げられる、抒情的情景『エルミニ』(track.6)... 幻想交響曲の2年前、1828年、2度目のローマ賞の挑戦で、2位という結果を得た時の課題のカンタータ。そこには、幻想交響曲のテーマ(固定楽想)が登場し、この作品の端緒を見出すことができる。で、このカンタータのドラマティックさ!まさにロマン主義を感じさせながらも、グルックの疾風怒濤によるトラジェディ・リリクを思わせて、興味深い。過去への憧れと、憧れが過ぎて、新たな時代を出現させてしまう若きベルリオーズの無邪気さを、息衝く音楽で切り結ぶミンコフスキ。課題のカンタータが俄然、輝きに充ちたものに!そして、エルミニを歌うルゲ(ソプラノ)の、クラッシーかつドラマティックなあたりが、まさにトラジェディ・リリクで、ぴったり。魅了される!
さて、この演奏の、最も刺激的な点が、マーラー室内管とレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルのジョイント... 文字通りのモダンとピリオドのハイブリットなのだけれど、両者ともに個性際立つ存在であって... そういう個性がどうアンサンブルを成して行くのか?ユース・オーケストラを母体とした若いオーケストラである、マーラー室内管の切れ味の鋭さに、ピリオド切っての尖がったオーケストラ、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルが加わると、「室内」という規模が育むシャープさと、ピリオド楽器の味わいが結ばれ、また独特。それでいて、マーラー室内管の若さが、若きベルリオーズの感情に共鳴するようで、錯綜する時代を突き抜けて行くような勢いが、圧巻!この勢いが、標題交響曲の金字塔を、俄然、新鮮なものとする。

BERLIOZ: SYMPHONIE FANTASTIQUE ・ HERMINIE
MARC MINKOWSKI


ベルリオーズ : 幻想交響曲
ベルリオーズ : 抒情的情景 『エルミニ』 *

マルク・ミンコフスキ/マーラー室内管弦楽団、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル
オレリア・ルゲ(ソプラノ) *

Deutsche Grammophon/474 209-2




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