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ブルックナーらしさの歩みを振り返る9番、円熟が生む感動。 [before 2005]

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ブルックナーの交響曲は9番まであるわけだけれど、全9曲かというと、そうではないのがおもしろいところ。で、特におもしろいのが、「0番」の存在!習作(1863)、1番(1866)を経て、1869年、ウィーン音楽院の教授となって間もない頃に、2番の交響曲として作曲されたのが、この「0番」。で、なぜに「0番」かと言うと、初演を目指して、その草稿をウィーンの宮廷歌劇場の指揮者で、楽壇の実力者、デッソフに見せたのだったが、1楽章について、「一体、主題はどこにあるのかね?」という一言で、その存在を無効、ゼロにしてしまったから... 気にしいのブルックナーならではのエピソードを持つ「0番」。いや、ある意味、「0番」は、ブルックナーの性格を象徴した作品だと言えるのかもしれない。で、さらにおもしろいのが、習作、ヘ短調の交響曲が、「00番」、ダブル・ゼロと呼ばれたりするところ... もう突っ込まずいられないよォ... で、そんなツッコミ所も、この不器用な作曲家の愛すべきところかなと... というブルックナーは、習作、無効、未完も含めて、全11曲の交響曲を残している。
さて、今回、聴くのは、未完に終わった11曲目... ニコラウス・アーノンクールの指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で、ブルックナーの最後の交響曲、9番。なのだけれど、完成された3楽章までの他に、未完の終楽章の断片をアーノンクールの解説とともに演奏するという、もう1枚が付いた興味深い2枚組(RCA RED SEAL/82876 54332 2)を聴く。

1887年、8番の初稿が完成されてすぐ、作曲に取り掛かったことが確認されている9番。なのだけれど、相変わらず、他の交響曲の改訂作業に時間を費やしまして、1896年、その死に至るまで、結局、完成を見ずに終わった9番... まったく、踏ん切りのつけられないブルックナーの性格というのは、もどかしい。しかし、未完に終わったことで、その音楽は、作曲家の最期まで、その傍らにあったわけで... そこには、ブルックナー、最晩年の姿が刻まれているわけだ。そんな9番に本腰を入れるのが、最初に書き始めてから4年が経った、死の5年前にあたる1891年、66歳の時... まず1楽章(disc.1, track.1)が1892年に完成するものの、早速の改訂作業入り... で、踏ん切りをつけられたのが1893年。続く、2楽章(disc.1, track.2)、3楽章(disc.1, track.3)は、1894年に完成。そうして、終楽章(disc.2)へと書き進めるはずだったが、3楽章を作曲している頃から体調を崩しており、終楽章の作曲の開始は1895年にズレ込んでしまう。そんな終楽章、ブルックナーは、多くのスケッチを書き、いくつかの草案を形にし、熟考を重ねながら骨格を固め、終結部へと入ろうというところまで書き進めながら、1896年10月11日、この世を去る。作曲は、その日の午前中まで、続けられていたとのこと...
という9番、最後の交響曲というだけあって、響いて来るものの重みが違うような気がしてしまう。10曲の交響曲の蓄積から生まれる密度、さらには、晩年となってもなお前へ進もうとする作曲家の姿勢が相俟って、それまでにはない表現の幅が感じられる。その幅がまた、独特の雰囲気を醸し出すようで、1楽章(disc.1, track.1)の始まりからして、一味違う。ブルックナーらしさである絶対音楽としての極まりを維持しながらも、より音楽的な深みを増したサウンド!それまでの万年青年のようだった精悍なサウンドを振り返れば、まさに円熟がそこにある。で、ブルックナーにして「円熟」を感じさせる音楽というのが新鮮だったり... またその円熟に、近代音楽のトーンが浮かぶのが興味深い。いや、改めて時代を見つめれば、それはもう19世紀末であって、第九が初演された年、1824年に生まれたブルックナーも、その晩年は20世紀を目前とした時代だったわけだ。我が道を行きながらも、時間の流れが近代音楽の方へと向かわせ、ブルックナーの絶対音楽も、知らず知らずの内に、新たな気分へと引き寄せられて行ったのかもしれない。ブルックナーの場合、近代音楽に近付いて、より音楽的な表現を感じられるのがおもしろい。そのあたりにまた、一筋縄には行かないブルックナーを再確認させられる。
そんな1楽章から一転、2楽章(disc.1, track.2)のスケルツォは、ブルックナーらしさが鮮やかに繰り出され、万年青年へと回帰!こういう揺れ戻しを経ての3楽章(disc.1, track.3)の始まりは、マーラーの最後の交響曲、やはり未完の10番を思わせて、デジャヴュを見るような不思議さがある。そこに立ち現れる、トランペットが奏でるシンプルにして輝かしいフレーズ!瞬間、ライヒを聴いているような錯覚に陥る... マーラー的な世紀末感、厭世感の中、メランコリックに人生を振り返りながら、時折、雲間から光が差し... 時に雲を突き抜けて、眩しい天上を思わせる、ミニマル・ミュージックのような陶酔感に包まれる瞬間がやって来て... 人生のメランコリーと、天上の輝かしさ、この振幅の大きさに圧倒される。ミクロコスモスとマクロコスモスを行き来するような展開が生む、ただならないスケール感!これが、ブルックナーの最後に至った境地か?この後、終楽章が書き進められていたわけだけれど、3楽章のスケール感は、ここで交響曲を終わらせるだけの説得力がある。
そのスケールを確かなものとするのが、アーノンクール、ウィーン・フィル。アーノンクールならではの一筋縄には行かない運びが、この圧倒的な音楽に、うねりのようなものを生み出し、陰影をより濃いものに... そうして、より近代音楽に近付くようでもあって... またそこには、ウィーンという都市の複雑な薫りも漂い、自然の峻厳さ、清冽さとは一味違う、より豊かなイメージを喚起し、印象的。いや、ウィーン人による、ウィーンの作曲家、ブルックナーの交響曲を強く意識させられる。だからだろう、マーラーがより近くに感じられ、絶対音楽はより色彩的に躍動し、新ウィーン楽派のように表現主義的にすら感じるところも... 一方、アーノンクールがこだわった、終楽章の断片(disc.2)の演奏も実に興味深いのだけれど、一度、3楽章まで(disc.1)の濃密な演奏に浸ってしまうと、断片ゆえにインパクトは薄くなってしまうのか... あるいは、老作曲家の衰えを感じるようでもあり、少し寂しい印象を受ける。それもまたブルックナーであって、詳らかにされるべきものなのだけれど...
しかし、何て感動的なのだろう!希代のシンフォニストの人生が詰まった交響曲!若き時も、その後も、良い時も、悪い時も、全てを呑み込んで、響き出す音楽の雄弁さに感じ入る。そして、ウィーン・フィルの旨味溢れるサウンド!ウィーン古典派以来の伝統、ビーダーマイヤーのある種のチープさ、東方性、他のヨーロッパの都市にはない多層的な芸術性が醸し出す"ウィーン"に酔い... それを以ってしてブルックナーが響くという驚きと、だからこそのスケール感に圧倒され、惹き込まれる。

BRUCKNER: SYMPHONY NO.9 + FINALE FRAGMENT ・ HARNONCOURT

ブルックナー : 交響曲 第9番 ニ短調

ニコラウス・アーノンクール/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

RCA RED SEAL/82876 54332 2




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