バッハの春の訪れの喜び!マタイ受難曲... [before 2005]
春分は過ぎ、桜も開花、春、本番を迎える準備は整ったか... という中で、四旬節が佳境を迎えようとしています。明日、3月24日は、聖木曜日(最後の晩餐にあたる日)。そして、明後日が、聖金曜日(イエスの受難の日)。そうして、日曜日に復活祭を迎え、四旬節が明けるわけです。それは聖書に即しているものの、長い四旬節の後に復活祭がやって来るあたりは、季節が巡るのと呼応するようで、おもしろい。日本では彼岸が明けたばかり、人の祈りには、宗教の違いに関係なく、どこかしら自然崇拝の記憶を留めているようで、興味深い。
さて、ハイドンの受難交響曲を聴いて突入した当blogのにわか四旬節... 華麗なる18世紀の四旬節を巡った先月、今月に入ってからは、受難に充ちた20世紀音楽をいろいろ聴いた(節制とは違うけれど、悔い改める感覚はそこにあったかなと... )のだけれど、普段は用いないフィルターを通して音楽を聴いてみると、見えて来る風景はまた違ったものとなるようで、新たな発見もあり、新鮮だった。そして、その最後に、バッハの受難曲を聴いてみようかなと... やっぱり、バッハの受難曲をおいて他に四旬節は語れない気もするし...
そこで、先日、亡くなった、ニコラウス・アーノンクールをしのび、マエストロが率いたウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏、アルノルト・シェーンベルク合唱団、ウィーン少年合唱団のコーラス、クリストフ・プレガルディエン(テノール)の福音史家、マティアス・ゲルネ(バリトン)のイエス、クリスティーネ・シェーファー(ソプラノ)、ドロテア・レッシュマン(ソプラノ)、ベルナルダ・フィンク(アルト)ら、充実の歌手たちによる、バッハのマタイ受難曲(TELDEC/8573-81036-2)を聴く。
受難に充ちた20世紀音楽を聴いてからのバッハは、何だかもの凄くほっとする。何だろう、この安心感。帰って来たァ。という感覚が、滾々と湧いて来て... そんなリアクションに、「音楽の父」は伊達じゃないなと感じてしまう。もちろん、音楽史をつぶさに見つめれば、どう考えたってバッハは父的位置には無いのだけれど(そもそも"父"というひとりを見出そうということ自体が土台無理な話しで... )、それでも、その懐の大きいサウンドに包まれると、父以外の何物でもないような印象を受けてしまう。そんなバッハの受難曲... 正直に言うと苦手だった。何たって、渋い!いや、華麗なる18世紀の四旬節のための音楽、バッハの同時代の音楽を思い起こせば、あまりに直截的に聖書... このイカニモなプロテスタントらしい抑制的なドラマティックさに息苦しくなるようで、それが3枚組とかで繰り広げられたらもう... もちろん、より厳格なプロテスタントを信仰するローカルな地域でのみ生きたバッハ(ルター派)なのだから、華麗な受難曲など書けなかっただろうし、求められもしなかった... バッハが拠点としたライプツィヒでは四旬節(ルター派では受難節... )期間中、音楽はすべて停止、教会カンタータもこの期間は歌われなかったくらい... そうした中での聖金曜日のための受難曲は、生真面目に聖書と向き合って当然か、
というマタイ受難曲を、アーノンクールで聴くのだけれど、ウーン、アーノンクールらしい一筋縄には行かない音楽性が、生真面目な聖書の音楽に作用して、思い掛けなく魅惑的なトーンを生み出すのか... 渋さは軽減され、というより、ふんわりと色付き始め、春を迎えるような、やわらかなトーンで包まれる。もちろん、ただフワフワしているわけではなく、芽吹きの力強さのようなものを秘めた春めく感覚!聖金曜日の「受難」そのものに焦点を合わせるのではなく、明後日に控えた復活祭へのワクワクした気持ちがこぼれ出してしまうような、そんな音楽が展開されていて... ライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(実質、ライプツィヒの街の楽長... )に就任して4年目、1727年の聖金曜日のために作曲されたマタイ受難曲。まだ42歳だったバッハの、作曲家としての精力的なあたりを浮かび上がらせ、そうしたあたりに、長く音楽が停止した後で、再び響き出す音楽の喜びを巧みに乗せて来るアーノンクール... バッハの記念碑的大作、マタイ受難曲を奉るのではなく、その当時の気分を掘り起こすようなアーノンクールのアプローチは、やっぱりピリオドのマエストロのものだなと... ただ、他のピリオドのマエストロとは違って、その当時のサウンドを徹底して追求し、ストイックな音楽(例えば、コーラスのそれぞれのパートを独りで歌うOVPPといった... )を展開することなく、思いの外、厚みのあるサウンドを奏でて来るのがアーノンクール流。
オーセンティックなピリオド・アプローチとは距離を取るこのマエストロならではの独特な温度感。これが絶妙に効き、マタイ受難曲をいい具合に温めて、バッハの同時代性のようなものを喚起させるのか... 生真面目に聖書を追うのではなく、オペラ的な表現(ライプツィヒのすぐに近くにあったドイツ・オペラが盛んだったヴァイセンフェルス、バッハがポストを狙っていた東の音楽の都、ドレスデンでは、ロッティ、ハッセらが活躍... )をそこはかとなしに引き入れて、程好く華やかな雰囲気で飾る妙... そこに、バッハを取り巻く音楽環境のリアルを垣間見せてくれるよう。で、そういうリアルを以ってして、活き活きと綴られるマタイ受難曲が、とても新鮮に感じられる。紛うことなき傑作とされ、どこか説教臭いイメージもあったこの作品が、アーノンクールの手に掛かると、よりナチュラルに向き合えて、また、バッハを形作る同時代の様々なモードがいろいろ浮かび上がりもし、そういうものを追っていると、まったく飽きない。きっと、この感覚は、1727年の聖金曜日、聖トーマス教会に集った会衆が持った感覚と同じなのではないだろうか?そんな風に感じられるアーノンクールのマタイ受難曲は、とても素敵だ。
というマエストロの下に集った、一級の歌手たち!いやー、何と言う豪華さ... この状況は、間違いなくバッハよりも恵まれているはず。何より見事な歌声の数々... ひとりひとりが、しっかりと歌い上げることで、アーノンクールの素敵さを膨らませて、印象深い。さらに、コーラスの豊潤さ!アルノルト・シェーンベルク合唱団の豊かなハーモニーに、アーノンクールの方向性が象徴されている気がする。で、忘れてならないのが、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの演奏... ライプツィヒというより、ドレスデンのようなゴージャスさを響かせながら、ドイツ・ロマン主義へと至る素地のようなものを、バッハの受難曲に匂わせる。これは、疑いも無くピリオド・アプローチである... のだけれど、どの"ピリオド"であるかが厳密に示されていない... というより、様々な"ピリオド"が打たれていて、ポリフォニックにそれらが共鳴して、ある到達点に至る。煙に巻かれるようなところもあるけれど、アーノンクールの一筋縄には行かないあたりが、この傑作に不思議な真新しさをもたらしていることは確か。それがまた、本当にすばらしい!ただただ、魅了されるばかり...
BACH Matthäus-Passion
CONCENTUS MUSICUS WIEN HARNONCOURT
■ バッハ : マタイ受難曲 BWV 244
福音史家 : クリストフ・プレガルディエン(テノール)
イエス : マティアス・ゲルネ(バス)
女中1/ピラトの妻 : クリスティーネ・シェーファー(ソプラノ)
ドロテア・レッシュマン(ソプラノ)
ベルナルダ・フィンク(アルト)
女中2/証人1 : エリーザベト・フォン・マグヌス(アルト)
ミヒャエル・シャーデ(テノール)
証人2 : マルクス・シェーファー(テノール)
ユダ/ペトロ/大祭司1/ピラト : ディートリヒ・ヘンシェル(バス)
オリヴァー・ヴィトマー(バス)
アルノルト・シェーンベルク合唱団、ウィーン少年合唱団
ニコラウス・アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
TELDEC/8573-81036-2
CONCENTUS MUSICUS WIEN HARNONCOURT
■ バッハ : マタイ受難曲 BWV 244
福音史家 : クリストフ・プレガルディエン(テノール)
イエス : マティアス・ゲルネ(バス)
女中1/ピラトの妻 : クリスティーネ・シェーファー(ソプラノ)
ドロテア・レッシュマン(ソプラノ)
ベルナルダ・フィンク(アルト)
女中2/証人1 : エリーザベト・フォン・マグヌス(アルト)
ミヒャエル・シャーデ(テノール)
証人2 : マルクス・シェーファー(テノール)
ユダ/ペトロ/大祭司1/ピラト : ディートリヒ・ヘンシェル(バス)
オリヴァー・ヴィトマー(バス)
アルノルト・シェーンベルク合唱団、ウィーン少年合唱団
ニコラウス・アーノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
TELDEC/8573-81036-2
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