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バッハ、バロックのマニアックと、現代から見つめるトランス性... [2005]

円堂都司昭著、『ソーシャル化する音楽』という本を読んでいる。
ウッドストックのあたりまで遡り、ポピュラー・ミュージック・シーンにおける「音楽」の在り様を丁寧に追い、つぶさに見つめることで、音楽の形が、単に音楽を聴くばかりではなかったことを再認識させてくれる興味深い一冊。よって、クラシックとはまったく関係ない。のだけれど... いや、そのことに、何か、強烈なものを感じてしまう。つまり、クラシックとは、完全に隔絶されたジャンルだったのだなと(って、今さらの話し?)。一方で、18世紀、オペラハウスでの熱狂や、19世紀、ヴィルトゥオーゾたちへの熱狂が、クラシックのレパートリーを充実させて来た歴史を振り返ると、クラシックは、ある意味、脱ソーシャル化されて成立したジャンル?そんな風に見つめ直すと、そこに至る経緯がとても興味深く感じる。のだけれど... で、いいのか?と、フツフツと湧き上がるものも... ウーン。
さて、ヘンデルに続いての、バッハ!5月、後半は、バロックの三大巨頭を聴こうかなと(よって、ヴィヴァルディへとつづく... )。ということで、2005年にリリースされた、バッハ、2タイトル... ピエール・アンタイのチェンバロで、平均律クラヴィーア曲集、第1巻(MIRARE/MIR 9930)、クリストフ・ルセのチェンバロで、イギリス組曲(ambroisie/AMB 9942)を聴き直す。


脱ソーシャル化の象徴?平均律クラヴィーア曲集、第1巻。

MIR9930.jpg
平均律クラヴィーア曲集、長短24調による前奏曲とフーガ...
改めてこの作品と向き合うと、何だかもの凄いもののように感じる。というより、これほどに非ソーシャルな音楽は無いようにも思う。タイトルからして聴く者を突き放すようなところがある。それは、音楽というより、数学か、物理学か... より根源的なものを探る実験のようで。本来、数学的である「音楽」、物理現象たる「音」そのものの存在を、聴く者に突き付けて来るかのよう。そもそも、聴くための音楽ではないのか?バッハは、自筆譜のはじめに、この曲集が広く聴かれるために書いてはいないことを明言している(「指導を求めて止まぬ音楽青年の利用と実用のため、又同様に既に今迄この研究を行ってきた人々に特別な娯楽として役立つために」、徳永隆男訳、wikiから... )。特殊な作品であることは間違いない。が、今や、鍵盤楽器の旧約聖書とも呼ばれ、権威を獲得している不思議。それだけのすばらしさがある!と言うのは簡単だけれど、如何にして、その特殊性が広く権威に成り得たかを考えると、そこに、脱ソーシャル化されて生まれた「クラシック」というジャンルの姿を見出すように感じる。つまり、平均律クラヴィーア曲集は、クラシックという性格を象徴する作品なのかもしれない。
ということで、何となく近寄り難く、ぼんやりと苦手意識を持っていて、あまり聴かない... のだけれど、あえて、久々に聴いてみた、平均律クラヴィーア曲集、第1巻。ヘンデルがロンドンに渡り、イタリア・オペラで華やかに活躍を始めた頃、マルチェッロの著作、『流行の劇場』で、槍玉に挙げられるほど、ヴィヴァルディがヴェネツィアのオペラで席巻していた頃、バッハにとってはケーテン時代の最後、1722年に作曲されたこの曲集。バロックが派手に展開されていた時代に、恐ろしく内向きな作品だなと、つくづく思う。特に、バッハなればこその緻密なフーガ!バロックというよりは、ルネサンスの昔を思い起こさせ、クラクラしてしまう。が、よくよく聴いてみると、その骨董的な魅力が新鮮に思えたり... また、そのひとつひとつが、それぞれに華やいでいて。長短24調による前奏曲とフーガ、長大なる2枚組も、何だか飽きが来ない。バッハ自体がマニアックであると明言しているこの曲集も、時代を経ることで、いい具合にマニアックさが抜け落ちるところもあるのか。例えば、始まりのハ長調の前奏曲(disc.1, track.1)の、シンプルでナチュラルな響きには心洗われる。後にグノーがメロディーを乗っけて、アヴェ・マリアに仕立てたわけだが、それが可能な独特のニュートラルさは、なかなか他の音楽では体験できないかもしれない。我が道を貫いてこそのバッハ流にマニアックにこだわって生まれる不思議なニュートラルさは、始まりばかりでなく、曲集の全てに貫かれる感覚でもあって。改めて聴いてみて、思い掛けなく惹き込まれる。
そして、アンタイのチェンバロ!スコアの隅々まで、明瞭に捉えて、一音一音をキラキラと輝かせるその響き!やたら厳めしく感じていた曲集を、華やぎと、雅やかさを以って、瑞々しく綴ってゆく。チェンバロという楽器のサウンドの、金属的なキツさのようなものを絶妙に抑えて、心地良く鳴り響かせるアンタイならではのタッチは、いつ聴いても魅了されるばかり。

PIERRE HANTAÏ BACH / CLAVIER BIEN TEMPÉRÉ PREMIER LIVRE

バッハ : 平均律クラヴィーア曲集 第1巻 BWV 846-859

ピエール・アンタイ(チェンバロ)

MIRARE/MIR 9930




バロック・トランス?新たな次元への扉を開ける、イギリス組曲。

AMB994205kl.gif
前奏曲と5つの舞曲からなる6つの組曲、イギリス組曲。
それは、とてもバロック的な音楽で、平均律クラヴィーア曲集の後だと、余計にそんな風に感じたり... 中部ドイツのローカルなエリアで活躍したバッハの音楽というのは、国際的に活躍したヘンデルや、ヨーロッパを席巻したイタリア出身の同時代の作曲家たちの音楽に触れてしまうと、古臭く感じることもあるのだけれど、イギリス組曲は、また一味違った存在感を見せてくれる。フランス流の流麗さ、荘重さに、ドイツ的な剛健さががっちりと組み込まれ、華麗でありながらどこかマッシヴ... で、このフランスとドイツの融合がイギリス風なのか?あるイギリスの貴人のために作曲された... と、後日、説明されたことで、「イギリス組曲」として今に伝えられるわけだけれど、それは、よりドイツ・バロックを印象付ける。フランス文化に心酔する傾向のあったドイツの、単にフランス流ではない骨太なスタイル。骨太でありながら、華麗であって、時にメランコリーも漂って、独特の聴き応えをもたらしてくれる。これが、カッコいい!いや、バッハはカッコいいのだ!そんな感慨に覚えるイギリス組曲!
前奏曲の後で、ジリジリとテンションを上げてゆく5つの舞曲... この展開が何とも言えない。舞曲とはいえ、この組曲で実際に踊ることは無かっただろうけれど、テンションを上げて来てのブーレや、最後のジーグは、本当にダンサブルで。またその勢いに現代的な感覚を見出してみたり。さらには、チェンバロのサウンドの金属的なあたりが、ちょっとエレクトリックな雰囲気もあって、そういうサウンドでめくるめく音楽が鳴り響いてしまえば、「バロック」というイメージを凌駕してしまう瞬間もあるのかもしれない。いや、それこそがバッハなのかも... 「バロック」というイメージをするりと抜け出して、びっくりするような境地を体験させてくれる。ドイツ・バロックを加速させて、圧を加えて、エネルギーが充満して来ると、ふと違う次元への扉が開いてしまう?そこから溢れ出す、スパークするサウンド!その降り注ぐ輝きに打たれてしまうと、何だか痺れてしまう。バッハはバロックのトランスか?
そうしたあたりをより際立たせる、ルセのチェンバロ!少し冷えた感覚で、鋭く攻撃的に奏でるそのタッチは、ある種、バロック・ロックなテイストと言えるのだろう。そう簡単には行かない音楽を、どんどん加速させて行って、なおかつその全てを明瞭に弾き切り、よりパワフルに響かせてしまうから、驚かされる... それは、単なるロックなノリでは到達し得ない演奏であって、改めてルセの鍵盤楽器奏者としての力量に感服させられる。それでいて、そのあたりを意識させる暇なく攻めて、聴く者をトランス状態へと誘うような、強力なパフォーマンスを繰り広げるのだから、クール!もちろん、全てが攻めの音楽ではないけれど、荘重なあたりも、一切、辛気臭くなることなく、全6曲、2枚組を一気に聴かせて、圧倒して来る。いや、クラシックも、隔絶しているばかりではなく、こういった作品、演奏で、ジャンルの外へと攻め込んだならば、何か新たなリアクションが生まれるのでは?なんて思えてしまう。そんな、ルセのイギリス組曲、久々に聴いて、惚れ直す。

J. S. BACH Suites anglaises CHRISTOPHE ROUSSET

バッハ : イギリス組曲 BWV 806-811

クリストフ・ルセ(チェンバロ)

ambroisie/AMB 9942

5月、バロック三大巨頭を聴く!
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