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メサイアの真実... [2006]

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キリストは彼らに向かい、「私の妻が... 」と発言した。
イエスには妻がいた?!と思わせるパピルスが発見されというニュースに、おおっ!となった先週。やっぱり、マグダラのマリアか?そして、こどもはいたのか?『ダ・ヴィンチ・コード』を地で行くというのか、これまでのフィクションにリアリティを持たせてしまう新たな考古学資料に、ワクワクさせられる。
そもそも、イエスの存在(あるいは位置付け... )は、非キリスト教徒からすると、空を掴むようなところがある。「父と子と聖霊... 」というのが、今一、ピンとこない。ピンとこないところに、ありがたみがあるのやもしれないけれど、冷静に、その三位一体というものを見つめると、教会による苦し紛れの辻褄合わせに感じなくもなく、深い含蓄を含んだイエスの言葉が、かえって実態のないものに思えたり... なんて言ったら、怒られてしまう?けど、「私の妻が... 」なんて語り掛けるイエスには、何かリアリティが滲んでいて、親しみすら感じ、
この辺で、音楽に話しを戻しまして、メサイア... 2006年にリリースされた、ルネ・ヤーコプスの指揮、フライブルク・バロック管弦楽団による、ヘンデルのオラトリオ『メサイア』、1750年版(harmonia mundi/HMC 901928)を聴き直す。これがまた、人間味溢れる演奏でして...

実は、ずっと仕舞い込んでいて...
あのヤーコプスが、とうとうヘンデルの代表作に挑むとなれば、期待せずにいられないわけで、期待し過ぎたのだろうか?ヤーコプスならではの躍動する音楽、それを支える粒揃いのソリストたち、オーケストラ、コーラスの高いクウォリティ... の、コーラス(いつもの、ドイツが誇るハイテク室内合唱団、RIAS室内合唱団ではなく、『メサイア』に因んでか、イギリスのクレア・カレッジ合唱団が登場... )のクウォリティが若干、落ちる?それに引き摺られて、全体がぼんやりとマッドな仕上がりで、いつものクリアさが生む輝きが少ない。ような。そんなヤーコプスの『メサイア』にノリ切れず、変にフラストレーションを溜めてしまい、仕舞い込む。ヘンデルの代表作だけに、すでに多くの名盤がある中で、どうも聴く側のハードルも知らず知らずに高くなってしまったのだろうか?そうして、6年が過ぎ、恐る恐る聴き直してみたのだけれど、いや、聴き直して良かった!やっぱり、クラシックにとっての時間は、スパイスに成り得るのだなと、思い知らされる。というより、ちょっと狐につままれたような感覚すらあったり。
で、やっぱりヤーコプスが生み出す音楽はただならず躍動的だった... 今、改めてこの『メサイア』を聴いて、そのことを再確認させられる。かえってマッドな仕上げで、実はそうすることで力強さを込めていて、一瞬たりとも取り澄ました表情を見せない『メサイア』に、ただただ惹き込まれる。バッハを思わせて、多少、古臭く、辛気臭い... よってあまり印象を残さない最初のシンフォニーすら、グイっとヤーコプスのセンスに手繰り寄せられて、アグレッシヴな音楽を紡ぎ出す。そうして始まる第1部(disc.1, track.1-16)、イエスの降誕が預言される旧約聖書の部分となるわけだが、やっぱり物語のクライマックスはイエスの受難(第2部)ということで、盛り上がりに欠けるような印象があったけれど、ヤーコプスはそういう状況を許さない。どんなに静かな風景を歌ったとしても、緊張感が走る。イエス様についてのありがたい音楽?古色蒼然とした典雅なバロック?そういう感覚は微塵も存在しない、ヤーコプスが描き出す『メサイア』。とにかく、恐ろしく現代的。アプローチとしての「現代的」ではない、様々な問題を抱えた生々しい現代を体現するような緊迫感... だからか、遠いはずのイギリスの、18世紀の音楽がもの凄く迫って聴こえて来る。それは、聴く側に、すばらしい音楽を鑑賞する... なんて余裕を持たせない距離感?
となると、イエスの受難を描く第2部(disc.1, track.17-21/disc.2, track.1-16)などは、息つく暇なく展開されて、一気にハレルヤ・コーラス(disc.2, track.16)まで歌い上げられる。もちろん、ただ勢いよく歌われるのではなく、怒り、悲しみ、喜び、描かれるあらゆる感情が息衝き、濃密なドラマが展開されて、その濃密さが勢いを生む... "ヤーコプスならでは"が如何なく発揮されて生まれる勢い。それは、いつものヤーコプスの2割増しくらいの感覚があるだろうか?そして、その勢いのまま、第3部(disc.2, track.17-23)へ... で、最も印象的なのが、最後のアメーン・コーラス(disc.2, track.23)。厳かに、やがて感動的に締め括るアーメン・コーラスだが、その浮世離れした荘重さが、それまでのドラマティックな気分を削ぐようでもあり、少し興醒めさせられるところもなくはなかったが、ヤーコプスはそうした王道を巧みに裏切ってくる。ヤーコプスの、全ての音に動きを、生命力を与えようという執念が伝わるような、生気を失わないアーメン・コーラスを改めて聴いて、6年目にして圧倒される。
これまでヤーコプスは、音楽に魔法を掛けるようにヴィヴィットな表情を創り出し魅了してくれたわけだが、この『メサイア』では、どこか荒ぶりながら音楽を紡ぎ出していて、フライブルク・バロック管ですら荒さが見える。のだけれど、そこまで踏み込んで、これまでにない『メサイア』を実現し得ているのか... その象徴的存在が、クレア・カレッジ合唱団。間違いなく、そのハーモニーはユルい... 端々に不器用さすら感じてしまう... が、その不器用さを逆手に取って攻めて来る!精密さが奪っていた人間臭さのようなものを、これでもかと盛り込んで、綺麗に整えられていないからこそ浮かび上がるリアリティ。そして、忘れてならないのが生粋のイギリス人たちによる英語の響き!気取りのようなものを感じつつも、雄弁で、やはりより表情は豊かなものになっていて... いや、これまでどこか色眼鏡で彼らを見ていたのかもしれない。上手い下手ではなく、ヤーコプスの『メサイア』には彼らしかいない... 見事にはまったその歌声に、今さらながら脱帽。そして、粒揃いの歌手たちも忘れるわけにはいかない。やはり、ひとりひとりがキャラクター性を強く持っていて、美しいだけではない、体温を感じさせる歌声が、聴く者の心に深く届く。そうして、1曲、1曲を丁寧に切々と歌い上げ、どのナンバーも印象的なものばかり...
ヤーコプスの『メサイア』は、形や枠組みに捉われることなく、描き出すべき対象をしっかりと見据えて、音楽の真実を伝えようとするのか。泥臭いくらいにイエスの物語と格闘して、本物のメサイア譚を綴るのか。その並々ならぬ意気込み、パフォーマンスに、感動を覚えずにはいられない。

GEORGE FRIDERIC HANDEL MESSIAH RENE JACOBS

ヘンデル : オラトリオ 『メサイア』 HWV.56 〔1750年版〕

カースティン・アヴェモ(ソプラノ)
パトリシア・バードン(アルト)
ローレンス・ザゾ(カウンターテナー)
コビー・ヴァン・レンズブルク(テノール)
ニール・デイヴィス(バス)
クレア・カレッジ合唱団
ルネ・ヤーコプス/フライブルク・バロック管弦楽団

harmonia mundi/HMC 901928




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