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シマノフスキ・ワールドへの旅、 [2008]

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20世紀はモダニズムの時代。だけれど、最初からモダニズムだったわけではない。19世紀の偉大な伝統は動かし難くどっしりと存在し、そうした存在への挑戦が、モダニズムをスパークさせ、センセーションを巻き起こしながら革新をもたらした。一方、その挑戦を挑まれた伝統はどうなったか?当然ながら、モダニズムの革新が進むに連れ、時代に取り残されて... そうした中で、爛熟と挑戦を受けての刺激によって、独特な変容も生み出す。そして、時代の主役に躍り出たモダニズムの影で、モダニズムに負けない個性が醸成されていた。革新からは距離を置きながらも、伝統を進化させた音楽。それは、思いの外、魅惑的だったりする。
ということで、20世紀、モダニズムの対岸にて、独自の世界を築き上げたポーランドの異才、シマノフスキ... アントニ・ヴィト率いるワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で、シマノフスキの交響曲、2番と、3番、「夜の歌」(NAXOS/8.570721)を聴く。

カロル・シマノフスキ(1882-1937)。
現在はウクライナ、当時はロシア帝国に併合されていた旧ポーランド領の南端にあたるティモシュフカにて、ポーランド系地主貴族、シュラフタの家に生まれたシマノフスキ。美術愛好家の父の影響もあり、芸術的に恵まれた環境で育つ(シマノフスキ家のこどもたちは、みな芸術の道へと進む... )。そうした中、父の手ほどきでピアノを学び始めたシマノフスキは、次第に才能の片鱗を見せ始め、10歳にしてネイガウス音楽院(ロシアの音楽家一家、ネイガウス家は、シマノフスキ家と縁戚関係にあった... )へ、19歳になるとワルシャワへと出て(1901)、ワルシャワ音楽院で学ぶ。が、守旧的なポーランドの楽壇に馴染めず、音楽院卒業後の1905年、ベルリンにおいて、ポーランドの次世代の音楽家たちと「若いポーランド」を結成、ポーランドの外で精力的な活動をスタートさせる。そうした中、1909年に作曲された2番の交響曲(track.1-9)から聴くのだけれど...
ヴァイオリン・ソロによる、甘く夢見るようなメロディーで始まる1楽章。これは、本当に交響曲ですか?というくらいのメローさに面喰うのだけれど、ヴァイオリン・ソロが活躍しての濃密なロマンティックは、どこか『ツァラトゥストラ... 』(有名な冒頭の後に続く本編... )を思わせて、モダニズム前夜の爛熟そのものといったところか。独特な音楽世界を築き上げたシマノフスキからすると、そういう当世風のサウンドが、かえって新鮮?というより、酔わされる!2楽章のめくるめく変奏(track.3-8)には、『ばらの騎士』を思わせるゴージャスさを放ち、魅惑的。で、このロマンティックさが、やがて生み出されるシマノフスキ・ワールドのベースになるわけだ。さて、終楽章(track.9)は、一転、随分としゃっちょこばったフーガを繰り広げて、まるで、レーガー。いや、こういう教科書的なことを卒なくこなすマノフスキの姿に「若さ」を感じ、微笑ましく... 最後は、しっかりと交響曲らしく締める。
さて、2番の交響曲を作曲した頃から、シマノフスキは、南に、あるいは東方に目を向け、地中海を旅する。イタリア(1909)、シチリア(1910)、北アフリカ各地(1914)を巡り、古代文明、ビザンツ文化、イスラム文化など、ヨーロッパの文化とは異なる感性に強い刺激を受ける。何より、非キリスト教圏を旅したことで、精神的な自由を味わったか?その後の音楽はより解放的となり、東方のミステリアスさを濃密に纏い、象徴主義に共鳴しながら、独自の世界を築き上げた。そして、その結晶とも言える作品が、3番の交響曲、「夜の歌」(track.10-12)。第1次世界大戦(1914-18)が激しくなる1916年、故郷、ティモシュフカに帰り作曲されたこの作品には、戦争の現実(ロシア帝国領であったティモシュフカには、革命の混乱も迫っていた... )から逃避するかのように官能的なシマノフスキ・ワールドが出現する。その突き抜けた世界観は、ちょっと他に探せないかも...
テノールの独唱と、コーラスを用い、3つの楽章からなる交響曲は、ペルシャの神秘主義者、ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207-73)の詩をテキストとし、後期ロマン主義の爛熟を弾みに、印象主義の豊かな色彩と、象徴主義のミステリアスを巧みに引き込んで、表現主義に接近しながら、圧倒的な異世界を描き出す。深く謎めく1楽章(track.10)の冒頭から、もう、ただならい。ヨーロッパとは違う、どこか遠い場所へとやって来てしまったような、勝手の知らないテイストに戸惑いを覚えつつも、得も言えぬ芳しいメロディーが纏わりつくようなところがあって、ちょっと悪魔的。やがて、コーラスが大きなうねりとなり、オーケストラによる鮮烈なサウンドの洪水が効く者に襲い掛かる。いや、もう、サイケデリック!メシアンのトゥランガリーラ交響曲を先取るような雰囲気に、圧倒される。そうして、切れ目なく続く2楽章(track.11)、終楽章(track.13)... 熱狂と瞑想が波のように寄せては引いて、ただただ眩惑される。嗚呼、シマノフスキ・ワールド!呑まれてしまう感覚がたまらない。
そんな、シマノフスキの大いなる飛躍を聴かせてくれた、ヴィト+ワルシャワ国立フィル。ヴィトならではの無駄の無い響きが、糜爛気味のシマノフスキの音楽を見事に捌いて、見事!で、マエストロにきっちりと応えるワルシャワ国立フィルも冴えていて、シマノフスキならではの色彩的なサウンドを鮮やかに繰り出す。また、「夜の歌」(track.10-12)では、テノール・ソロを歌うミンキエヴィチの、どことなしに少年っぽさを残す瑞々しい歌声が悩ましげで、シマノフスキ・ワールドをより妖しげに盛り上げ... さらに、繊細から迫力まで、縦横無尽のワルシャワ国立フィルの合唱団が大活躍!母国の作曲家の熱い思いが、鮮やかに昇華され、的確にして、より魅惑的なシマノフスキ・ワールドを堪能させてくれる。

SZYMANOWSKI: Symphonies Nos. 2 and 3

シマノフスキ : 交響曲 第2番 変ロ長調 Op.19 *
シマノフスキ : 交響曲 第3番 Op.27 「夜の歌」 **

エワ・マルチェク(ヴァイオリン) *
リシャルド・ミンキエヴィチ(テノール) *
ワルシャワ国立フィルハーモニー合唱団 *
アントニ・ヴィト/ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団

NAXOS/8.570721


さて、その後のシマノフスキはどうなったか... ロシア革命(1917)が始まると、故郷、ティモシュフカの領地は奪われ、シマノフスキ家は、全財産を失ってしまう。一方で、ロシア帝国の崩壊と、第一次世界大戦の終結(1918)により、ポーランドが念願の独立を果たすと、シマノフスキ家はワルシャワへと移る。シマノフスキも、新生ポーランドに新たな音楽文化を創出しようと意欲に駆り立てられるのだったが、またもやポーランドの楽壇の守旧的な態度に阻まれ、苦しむことに... そうしたストレスもあってか、健康を崩してしまい、ポーランド南部、スロヴァキアとの国境に近い、タトラ山脈にあるザコパネに移る(1922)。これが切っ掛けとなり、古いポーランドの伝統が活きる土地で、民俗音楽を研究、愛国的で新しい響きを模索。1927年には、ワルシャワ音楽院(1930年にワルシャワ音楽アカデミーとなり、現在はショパン音楽アカデミーとなっている... )の院長に就任、ポーランドの楽壇に再び挑むも、やはり最後は守旧派が立ちはだかり、辞任(1931)。その後は、作曲に打ち込み、バレエ『ハルナシェ』などを作曲。このバレエは、パリのオペラ座で大成功(1936)するも、経済的には不安定となり、再び体調を崩し、結核が悪化。1937年、療養先のローザンヌで息を引き取る。




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