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諦念の先に、溢れるやさしさ... [2008]

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まず、それは、名演... なのである。
2008年、ダムラウのブラヴーラに始まって、多少、キテレツなものも含めて、いろいろ聴いてきたわけだけれど、これは、最大のインパクトかもしれない、ハーディングのドイツ・グラモフォン移籍、第1弾。
ドイツ・カンマー・フィル、マーラー室内管と、ユース・オーケストラから発展した若いオーケストラを率い、フレッシュさを売りに躍進して来たハーディングだったけれど、彼もドイツ・グラモフォンに飲みこまれたか... なんて、その栄転、素直には喜べなかった。何しろ、「名門」という看板ばかりが立派で、レーベルとしての衰退感は、クラシック切って... 下手に契約すると、リリースされるアルバムが激減なんてこともあり得るわけで。とはいえ、さすがはクラシック切っての「名門」。移籍、第1弾が、いきなり、名門、ウィーン・フィルとは!何と豪華な...
という、ダニエル・ハーディングの指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で、マーラーの未完の交響曲、10番(Deutsche Grammophon/477 7347)。クック校訂版、第3稿、第2版による... というあたり、付いて行けてないのだけれど... 聴く。

マーラーの10番に、あまり関心が持てなかった。マーラー自身で完成させた、それ以前の交響曲とは、やはり何か違うものを感じてしまう。マーラーとはベツモノ?10番には、そんなイメージが、どこかにあって... また、その複雑な補筆の経緯などを説明されてしまうと、何か、引いてしまうところも。とはいえ、嫌いじゃない... 1楽章(は、マーラーが完成させていた... )の、めくるめくアダージョの、ただならない眩惑感!嗚呼、マーラー!という、どうしようもなく甘美で濃密で分厚い音楽に、もう、忘我の境地... これがたまらない... が、その後に関しては、これまで、素直に聴くことはなかったかもしれない。しかし、今、ハーディング盤に触れて、そのあまりに自然な佇まいに、未完、補筆、云々は忘れ、最後まで、ただただ素直に聴いてしまう。
それにしても、1楽章ですら長大だったはずなのに、全曲が、あっという間に過ぎてゆく... こんな風に聴けるものだった?と、まず驚かされる。何なのだろう?この感覚... 巨大な交響曲に圧倒され、またその密度の濃さ、そこから発せられる重さに押しつぶされそうなのだけれど、それらが、全て苦にならない不思議。いや、ウィーン・フィルという"超"名門を前にして、まったく揺るがない、ハーディングの見事なバランス感覚。そうして響く、ウィーン・フィルがまた新鮮!細部まで、きちっと神経の行き届いたサウンドの、繊細かつ確かさに、良くも悪くもあったウィーン・フィルの味というのか、大時代的な気分は払拭されていて。ご当地、ウィーンの、その世紀末、独特のトーンを、今までにない透明感を以って繰り広げる。すると、マーラーが抱えていただろう、もどかしさ、諦めが、より色濃く描き出され、それがまた美しく昇華されて行き... やがて、ハーディングやら、ウィーン・フィルやら、そうした存在は消えてしまい、あるいは、マーラーという名前すら消えて、ただただ、感情やら、遠い記憶やらが、音に形を変え、そこに浮遊しているような... そんな演奏を聴いていると、まるで、ゆりかごに揺られるような心地良さがあって。懐かしいようで、これまでに体験したことのないたゆたう感覚に、癒されさえする。さらに、最後、終楽章(track.5)では、この世のものとは思えない、やさしさが溢れ出し... これが、マーラーの、最終的な境地というのか、心地だったのか?いや、これほどまでに美しい作品だったとは。今さらながらに思い知らされる。
そこで、ふと考える。マーラーの、最終的な境地というのか、心地... 未完の作品に、それは顕れるのか?ということ。奇妙にも思えるのだけれど、マーラーが完成させなかったからこそ、よりマーラーそのものに近付いているのかもしれない。未完を完成させるために、第3者が徹底してマーラーを見つめたことで、マーラー本人以上にマーラーを捉えているのかもしれない。そうして、得られる解脱感!のおもしろさ... それは、「マーラー」から解き放つ補筆でもあるのか?マーラーが抱え込んだ「マーラー」という呪いが、マーラーの手から離れたことで、解けるという、ファンタジー... 長大な交響曲でありながら、何か、お伽噺のよう。だからこそ、あっという間だったか... そして、こういう音楽世界を引き出したハーディング!ウィーン・フィル!
何と言っても、新世代を代表するマエストロ、ハーディングならではの、捉われない感性があって... 21世紀を強く意識させる、20世紀的しがらみを脱した、思い掛けなくクリアなマーラー像に魅了される。なればこそ、「マーラー」の呪いは、見事に解け切っていて、そのことに、何か、ほっとさせられるからおもしろい。そして、「マーラー」、「ウィーン・フィル」という、ある意味、ヘヴィーな存在を前に、ピュアを貫くハーディング... そこに、大物の器を見る。いや、彼は、単なる若手ではないのだなと... そんなハーディングを信頼し切ったウィーン・フィル... 彼らならではの独特さを抑えて、ただひたすらに美しいサウンドを追求する姿に驚かされ、そんなウィーン・フィルがまた新鮮!いや、そういう、一皮剥けた音楽を展開することで、本当の"美"を聴かせてくれるのか。その美しさがもたらしてくれる感動は、深く、やさしく、ただならない。

MAHLER: SYMPHONY No. 10 WIENER PHILHARMONIKER | DANIEL HARDING

マーラー : 交響曲 第10番 嬰へ長調 〔デリック・クック校訂版 第3稿 第2版〕

ダニエル・ハーディング/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

Deutsche Grammophon/477 7347


ウィーン世紀末の余韻に浸りつつ、新たな世紀、20世紀を迎えて、10番の交響曲が作曲されていた頃。19世紀以来のヨーロッパの機能不全がいよいよ深刻化していった時代。マーラーは何を感じていたのだろう?10番の交響曲から流れ出すのは、もどかしさと、諦めと、自身に対してなのか、世界に対してなのか、溢れるやさしさと... 心ならずも、我々が生きている時代は、マーラーが未完の大作を残して逝った時代に似ているのかもしれない(いや、危機的状況は、さらにさらに、地球規模で進んでいるわけだが... )。そんな風に思うと、マーラーが最後に鳴り響かせようとした音楽世界はまた、我々のための音楽にも思えて来る。マーラーにとっての未来の、20世紀の果ての、近代の成れの果て、21世紀。時代は大きく動いているようで、人間そのものは成長していないのかもしれない。そういう、出来の悪さを、何も言わずにそっと包んでしまうやさしさは母性?いや、訳もわからず泣けてくるのです。そのあまりに深い美しさに...




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